5月21日(火)から24日(金)まで、3泊4日の日程で、奈良・京都に行って来ました。数多くの仏像を拝観し、とても有意義で、心に残る旅になりました。
見仏したのは、以下の14寺です。今回、蟹満寺と鞍馬寺を初めて訪れました。
見仏したのは、以下の14寺です。今回、蟹満寺と鞍馬寺を初めて訪れました。
5/21(火):東大寺、興福寺(奈良泊)
5/22(水):室生寺、長谷寺、聖林寺、安倍文殊院、白毫寺、新薬師寺(奈良泊)
5/23(木):浄瑠璃寺、蟹満寺、観音寺、東寺、三十三間堂(京都泊)
5/24(金):鞍馬寺
5/22(水):室生寺、長谷寺、聖林寺、安倍文殊院、白毫寺、新薬師寺(奈良泊)
5/23(木):浄瑠璃寺、蟹満寺、観音寺、東寺、三十三間堂(京都泊)
5/24(金):鞍馬寺
《奈良1日目》
9:00東京発〈のぞみ213号〉と、11:33京都発〈JRみやこ路快速・奈良行〉を乗り継ぎ、12:18にJR奈良駅に到着。荷物をコインロッカーに預け、タクシーで東大寺に向かいました。
なお、奈良での宿泊をJR奈良駅近くの〈ホテル日航奈良〉にしたので、初日の見仏は奈良公園に限定しました。
9:00東京発〈のぞみ213号〉と、11:33京都発〈JRみやこ路快速・奈良行〉を乗り継ぎ、12:18にJR奈良駅に到着。荷物をコインロッカーに預け、タクシーで東大寺に向かいました。
なお、奈良での宿泊をJR奈良駅近くの〈ホテル日航奈良〉にしたので、初日の見仏は奈良公園に限定しました。
東大寺(4回目)
昨年5月に訪れた時は、修学旅行の小中学生や外国人観光客の多さに圧倒され、大仏殿の拝観を諦めました。今回、修学旅行生や外国人の多さに変わりはありませんでしたが、久々に盧遮那仏を拝観しようと思ったので、大仏殿に入りました。上を見上げていると、混雑はそれほど気にはなりませんでした。今回の東大寺見仏コースは、南大門→大仏殿(金堂)→四月堂(三昧堂)→三月堂(法華堂)→戒壇堂、でした。
【南大門】
◆金剛力士立像(仁王像)
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向かって右の、吽行像
◆金剛力士立像(仁王像)
向かって右の、吽行像
東大寺は、二度の戦禍を経験しています。現在の南大門は、治承4年(1180)の平重衡の焼き討ち後に再建されたもので、永禄10年(1567)の松永久秀による二度目の戦火で焼け残った数少ない建物です。
その南大門に陣取るのが、高さ8.4mにも及ぶ阿吽(あうん)の金剛力士像ですが、他の寺院の配置と逆になっていることが謎とされます。1988~1993年には造像以来初めて全面解体修理が行われて、構造技法と新発見の像内銘記によって制作の経緯などが解明されました。向かって左の阿形(あぎょう)は、運慶と快慶が小仏師13名を率いて制作し、右の吽形(うんぎょう)は運慶の弟・定覚(じょうかく)と長男・湛慶が小仏師12名を率いて制作し、両像の総頭領は運慶が務めていたのです。阿形像は、当初のプラン通りに整然と制作されていますが、吽行像は、顔面や胸部、腹部に改変の跡が見られ、試行錯誤したことが歴然としています。この改変が、定覚や湛慶という若手チームに運慶が指示を与えた結果なのか、大いに想像をかきたてます。(籔内佐斗司『仏像礼讃』より)
※その南大門に陣取るのが、高さ8.4mにも及ぶ阿吽(あうん)の金剛力士像ですが、他の寺院の配置と逆になっていることが謎とされます。1988~1993年には造像以来初めて全面解体修理が行われて、構造技法と新発見の像内銘記によって制作の経緯などが解明されました。向かって左の阿形(あぎょう)は、運慶と快慶が小仏師13名を率いて制作し、右の吽形(うんぎょう)は運慶の弟・定覚(じょうかく)と長男・湛慶が小仏師12名を率いて制作し、両像の総頭領は運慶が務めていたのです。阿形像は、当初のプラン通りに整然と制作されていますが、吽行像は、顔面や胸部、腹部に改変の跡が見られ、試行錯誤したことが歴然としています。この改変が、定覚や湛慶という若手チームに運慶が指示を与えた結果なのか、大いに想像をかきたてます。(籔内佐斗司『仏像礼讃』より)
【大仏殿】
◆盧舎那仏坐像(盧舎那大仏)
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像高は14.98m
◆盧舎那仏坐像(盧舎那大仏)
像高は14.98m
東大寺は、奈良時代の中頃に聖武天皇の発願によって創建された。大和の国分寺として立てられたが、盧舎那大仏が本尊とされたために、大規模な伽藍が営まれた。天下泰平・万民豊楽などを祈願する道場と教理研究所を兼ねる寺で、多くの学僧を輩出した。開山は良弁(ろうべん)僧正。現在は華厳宗の大本山である。
本尊の盧舎那仏は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)とも呼ばれ、華厳経の教主とされるが、この名は釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・光り輝く仏の意味である。像は青銅で鋳造され鍍金が施されていた。天平勝宝4年(752)に盛大な開眼供養が行われた。その後度々損傷を蒙り、その都度修理されている。両手は桃山時代、頭部は江戸時代のもの。
大仏殿は創建以来、治承4年(1180)と永禄10年(1567)に兵火に罹っていて、今の建物は江戸時代に建て直された三度目のものである。横幅が約3分の2に縮小されているが、それでも木造建築物としては世界最大級の規模を誇っている。(大仏殿入場券裏面の解説より、一部改編)
※本尊の盧舎那仏は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)とも呼ばれ、華厳経の教主とされるが、この名は釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・光り輝く仏の意味である。像は青銅で鋳造され鍍金が施されていた。天平勝宝4年(752)に盛大な開眼供養が行われた。その後度々損傷を蒙り、その都度修理されている。両手は桃山時代、頭部は江戸時代のもの。
大仏殿は創建以来、治承4年(1180)と永禄10年(1567)に兵火に罹っていて、今の建物は江戸時代に建て直された三度目のものである。横幅が約3分の2に縮小されているが、それでも木造建築物としては世界最大級の規模を誇っている。(大仏殿入場券裏面の解説より、一部改編)
【四月堂(三昧堂)】
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四月堂は、三月堂や二月堂の近くにありますが、拝観したのは今回が初めてでした。
四月堂は、三月堂や二月堂の近くにありますが、拝観したのは今回が初めてでした。
三昧堂は俗に四月堂と呼ばれ、かつては普賢菩薩像を本尊としたため、普賢堂とも呼ばれた。平安後期の記録『東大寺要録』によれば、治安元年(1021)に、仁仙大法師と助慶上人が創建し、傍らに僧坊を造って法華三昧行を修したという。なお、現在のお堂は延宝9年(1681)の再建で、当初は普賢菩薩が本尊であったと考えられるが、天和2年(1682)からは阿弥陀如来が本尊となり、明治36年(1903)から千手観音菩薩が本尊となっていた。
この千手観音菩薩像の造仏は平安時代であるが、元の安置場所は不明で、所在記録の初見は念仏堂修理のため法華堂礼堂に移された元禄11年(1698)である。
平成25年秋から東大寺ミュージアム本尊として安置することになり、新たに十一面観音菩薩像(平安時代)を四月堂本尊としてお迎えすることになった。
この十一面観音菩薩像は天理市にあった廃寺桃尾山寺の旧仏で、明治2年(1869)に東大寺に移され二月堂に祀られていたが、修二会行事準備の度に破損の危険があるので、終戦後は収蔵庫で保管されていた。附属の光背や台座は後補。(御朱印帳に挟んでいただいた紙片の解説文より)
※この千手観音菩薩像の造仏は平安時代であるが、元の安置場所は不明で、所在記録の初見は念仏堂修理のため法華堂礼堂に移された元禄11年(1698)である。
平成25年秋から東大寺ミュージアム本尊として安置することになり、新たに十一面観音菩薩像(平安時代)を四月堂本尊としてお迎えすることになった。
この十一面観音菩薩像は天理市にあった廃寺桃尾山寺の旧仏で、明治2年(1869)に東大寺に移され二月堂に祀られていたが、修二会行事準備の度に破損の危険があるので、終戦後は収蔵庫で保管されていた。附属の光背や台座は後補。(御朱印帳に挟んでいただいた紙片の解説文より)
◆十一面観音菩薩立像
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十一面観音の写真が無いので、四月堂でいただいた御朱印を紹介します。
十一面観音の写真が無いので、四月堂でいただいた御朱印を紹介します。
【三月堂(法華堂)】
◆不空羂索観音菩薩立像
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不空羂索観音菩薩立像(絵ハガキをコピー)
◆不空羂索観音菩薩立像
不空羂索観音菩薩立像(絵ハガキをコピー)
堂内には御本尊の不空羂索(ふくうけんさく)観音立像を中心に合計10体の仏像が立ち並び、そのすべてが奈良時代に造られたもので国宝に指定されています。これらの数多くの仏像の前に立つと、私たちもひと時の間、ともに「仏さまの世界」に居並ぶような心洗われる雰囲気に包まれます。
堂々たるお姿で悩める人々をどこまでも救いにおもむこうとされている不空羂索観音、髪を逆立て忿怒の相もすさまじい金剛力士(阿形)、それぞれにほとけの世界を守ろうと様々な表情でたたずんでおられる四天王、さらに創建以来今なおあざやかな色彩を見せ、金剛杵を振り上げ仏敵より人々を守ろうとされる執金剛神(しゅこんごうじん、秘仏)など、法華堂では、かけがえのない天平彫刻の力強さと美しさにも触れることができます。
〔堂内の仏像〕
・不空羂索観音菩薩像(乾漆像・362cm)
・梵天像( 〃 ・402cm)
・帝釈天像( 〃 ・403cm)
・金剛力士像(吽形)( 〃 ・306cm)
・金剛力士像(阿形)( 〃 ・326.4cm)
・持国天像(四天王)( 〃 ・309cm)
・増長天像(四天王)( 〃 ・300cm)
・広目天像(四天王)( 〃 ・304cm)
・多聞天像(四天王)( 〃 ・310cm)
・執金剛神像(秘仏、開扉12/16のみ)(塑像・170.4cm)(三月堂のリーフレットより)
※堂々たるお姿で悩める人々をどこまでも救いにおもむこうとされている不空羂索観音、髪を逆立て忿怒の相もすさまじい金剛力士(阿形)、それぞれにほとけの世界を守ろうと様々な表情でたたずんでおられる四天王、さらに創建以来今なおあざやかな色彩を見せ、金剛杵を振り上げ仏敵より人々を守ろうとされる執金剛神(しゅこんごうじん、秘仏)など、法華堂では、かけがえのない天平彫刻の力強さと美しさにも触れることができます。
〔堂内の仏像〕
・不空羂索観音菩薩像(乾漆像・362cm)
・梵天像( 〃 ・402cm)
・帝釈天像( 〃 ・403cm)
・金剛力士像(吽形)( 〃 ・306cm)
・金剛力士像(阿形)( 〃 ・326.4cm)
・持国天像(四天王)( 〃 ・309cm)
・増長天像(四天王)( 〃 ・300cm)
・広目天像(四天王)( 〃 ・304cm)
・多聞天像(四天王)( 〃 ・310cm)
・執金剛神像(秘仏、開扉12/16のみ)(塑像・170.4cm)(三月堂のリーフレットより)
【戒壇堂】
◆四天王立像
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上段左:持国天、上段右:増長天、下段左:広目天、下段右:多聞天(JR東海「うましうるわし奈良」キャンペーンポスターより)
◆四天王立像
上段左:持国天、上段右:増長天、下段左:広目天、下段右:多聞天(JR東海「うましうるわし奈良」キャンペーンポスターより)
堂内には四天王像(塑像)及び多宝塔(木造)を安置する。四天王は仏法の守護神としてわが国においては飛鳥時代から信仰があり、奈良時代に最盛期を迎える。創建時の四天王像は銅造であったが失われ、現在の四天王像は寺内の中門堂から移されたものといわれる。この四天王像は一具のなかで静と動で忿怒を表現し、天平彫刻の傑作として知られる。身にまとう甲冑は遠く中央アジアの様式がみられ、当時の文化の広がりを物語っている。
持国天:160.5cm、増長天:162.2cm、広目天:169.9cm、多聞天:164.5cm(戒壇堂のリーフレットより)
※持国天:160.5cm、増長天:162.2cm、広目天:169.9cm、多聞天:164.5cm(戒壇堂のリーフレットより)
興福寺(4回目)
昨年10月、中金堂の落慶法要が行われました。これを機に、それまで南円堂に安置されていた四天王立像が中金堂に移されました。運慶展(2017・東京国立博物館)で見て以来、この四天王像にはぜひ再会したいと思っていたので、真っ先に中金堂を訪ねました。中金堂に入り、パンフレットを見て驚きました。「近年の研究により、像の肉身色などから、従来持国天と呼んでいた像は増長天、増長天は広目天、広目天は持国天であることがわかりました」と書かれていました。
持国天→増長天、増長天→広目天、広目天→持国天というふうに名称が変更になっていたのです。興福寺は何度も火災に遭っているので、それらの混乱のために、いつの間にか取り違えてしまったのかもしれません。
【中金堂】
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正面より、中金堂を望む。
正面より、中金堂を望む。
中金堂は藤原不比等が興福寺の最初の堂宇として、和銅3年(710)の平城遷都と同時に創建しました。創建当時の規模は奈良朝寺院の中でも第一級でであったと言われています。当初は藤原鎌足ゆかりの釈迦如来を中心に、薬王・薬上菩薩、十一面観音菩薩2躯、四天王、さらに養老5年(721)橘三千代が夫不比等の一周忌供養で造立した弥勒浄土の群像が安置されていました。
創建より6回の焼失・再建を繰り返し、享保2年(1717)に焼失した後は財政的な問題により文政2年(1819)に規模を縮小した「仮堂」を再建。その後は老朽化が進んだため、平成12年(2000)に解体。発掘調査の後、平成22年(2010)の立柱式、平成26年(2014)の上棟式を経て、平成30年(2018)に再建落慶を迎え、創建当時の様式で復元されました。(中金堂のリーフレットより)
※創建より6回の焼失・再建を繰り返し、享保2年(1717)に焼失した後は財政的な問題により文政2年(1819)に規模を縮小した「仮堂」を再建。その後は老朽化が進んだため、平成12年(2000)に解体。発掘調査の後、平成22年(2010)の立柱式、平成26年(2014)の上棟式を経て、平成30年(2018)に再建落慶を迎え、創建当時の様式で復元されました。(中金堂のリーフレットより)
◆四天王立像
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左から、持国天・広目天・増長天・多聞天(運慶展(2017)の図録をコピー)
左から、持国天・広目天・増長天・多聞天(運慶展(2017)の図録をコピー)
木造・彩色、像高[持国天]200cm[広目天]197.5cm[増長天]206.6cm[多聞天]197.2cm、鎌倉時代(13世紀)、興福寺南円堂(引用者注:現在は中金堂)(奈良市)
現在、興福寺南円堂に安置されているが、興福寺曼荼羅(京都国立博物館蔵)をはじめとする南円堂の安置仏を描いた画像との照合により、今、仮講堂にある四天王立像(康慶作)が、本来、南円堂に安置されていた像であることが明らかになり、この四天王像の原所在は不明となった。(中略)
最近では北円堂説が注目を集めている。興福寺曼荼羅と図像的にほぼ一致するためである。この場合は建暦2年(1212)の運慶一門の作ということになる。ただし、身体の色から、赤い持国天を増長天に、緑色の広目天を持国天に、肌色の増長天を広目天にそれぞれ置き換えて、持国天が湛慶、増長天が康運、広目天が康弁、多聞天が康勝という分担ということになる。興福寺曼荼羅では北円堂の四天王像はすべて邪気を踏み、広目天は両手で戟(げき)を執り、多聞天は兜(かぶと)をかぶるなど相違点がある。興福寺曼荼羅の制作年代は不明で、運慶造像以前の可能性もある。また、像の姿を正確に写すことを目的にはしていない可能性もある。また、今この四天王像が立つ岩座は後補とみられるので、かつては邪鬼を踏んでいた可能性もある。
持国天像、多聞天像はダイナミックな動き、優れた出来栄えから運慶作の可能性は十分考えられる。ただ、激しい怒りの表情、甲(よろい)のにぎやかな装飾などは願成就院、浄楽寺の毘沙門天像と比べると大きな開きがあり、弥勒如来、無著・世親像の静かな雰囲気とも異質である。
無著・世親像に玉眼を用いるが、四天王像は玉眼を採用せず、瞳を浮き彫りする理由も不明である。(運慶展図録・作品解説より~2017年当時)
※現在、興福寺南円堂に安置されているが、興福寺曼荼羅(京都国立博物館蔵)をはじめとする南円堂の安置仏を描いた画像との照合により、今、仮講堂にある四天王立像(康慶作)が、本来、南円堂に安置されていた像であることが明らかになり、この四天王像の原所在は不明となった。(中略)
最近では北円堂説が注目を集めている。興福寺曼荼羅と図像的にほぼ一致するためである。この場合は建暦2年(1212)の運慶一門の作ということになる。ただし、身体の色から、赤い持国天を増長天に、緑色の広目天を持国天に、肌色の増長天を広目天にそれぞれ置き換えて、持国天が湛慶、増長天が康運、広目天が康弁、多聞天が康勝という分担ということになる。興福寺曼荼羅では北円堂の四天王像はすべて邪気を踏み、広目天は両手で戟(げき)を執り、多聞天は兜(かぶと)をかぶるなど相違点がある。興福寺曼荼羅の制作年代は不明で、運慶造像以前の可能性もある。また、像の姿を正確に写すことを目的にはしていない可能性もある。また、今この四天王像が立つ岩座は後補とみられるので、かつては邪鬼を踏んでいた可能性もある。
持国天像、多聞天像はダイナミックな動き、優れた出来栄えから運慶作の可能性は十分考えられる。ただ、激しい怒りの表情、甲(よろい)のにぎやかな装飾などは願成就院、浄楽寺の毘沙門天像と比べると大きな開きがあり、弥勒如来、無著・世親像の静かな雰囲気とも異質である。
無著・世親像に玉眼を用いるが、四天王像は玉眼を採用せず、瞳を浮き彫りする理由も不明である。(運慶展図録・作品解説より~2017年当時)
【東金堂】
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東金堂と五重塔
東金堂と五重塔
興福寺の本堂である中金堂の東にあることから東金堂と呼ばれる。神亀3年(726)に聖武天皇が叔母の元正太上天皇の病気全快を願って造られた薬師如来坐像を本尊とする。創建当初は床に緑色のタイルが敷かれ、薬師如来の浄瑠璃光世界がこの世にあらわされていた。以来5度の被災、再建を繰り返し、今の建物は応永22年(1415)に再建された。前1間を吹き放しとし、三手先斗□(みてさきときょう、□=木+共)、寄棟造で、奈良時代の雰囲気を伝える。
〔堂内の主な仏像〕
・薬師如来坐像(255cm、銅造・漆箔・彫眼、15世紀初期・室町時代)
・日光・月光菩薩立像(日光菩薩300.3cm・月光菩薩298cm、銅造・鍍金、7世紀末・白鳳時代)
・四天王立像(153~164cm、桧材・一木造・彩色・瞳は黒漆、9世紀・平安時代)
・維摩居士坐像・文殊菩薩坐像(維摩居士88.1cm・文殊菩薩94cm、桧材・寄木造・彩色・玉眼、12世紀末・鎌倉時代)
・十二神将立像(113~126.3cm、桧材・寄木造・彩色・彫眼、13世紀初・鎌倉時代)(東金堂のリーフレットより)
※〔堂内の主な仏像〕
・薬師如来坐像(255cm、銅造・漆箔・彫眼、15世紀初期・室町時代)
・日光・月光菩薩立像(日光菩薩300.3cm・月光菩薩298cm、銅造・鍍金、7世紀末・白鳳時代)
・四天王立像(153~164cm、桧材・一木造・彩色・瞳は黒漆、9世紀・平安時代)
・維摩居士坐像・文殊菩薩坐像(維摩居士88.1cm・文殊菩薩94cm、桧材・寄木造・彩色・玉眼、12世紀末・鎌倉時代)
・十二神将立像(113~126.3cm、桧材・寄木造・彩色・彫眼、13世紀初・鎌倉時代)(東金堂のリーフレットより)
【国宝館】
〔館内の主な仏像〕
・金剛力士立像(定慶作、阿形154cm・吽業153.7cm、桧材・寄木造・彩色・玉眼、12~13世紀・鎌倉時代)
・天燈鬼立像・龍燈鬼立像(龍燈鬼は康弁、天燈鬼78.2cm・龍燈鬼77.8cm、桧材・寄木造・彩色・玉眼、建保3年(1215)・鎌倉時代)
・千手観音菩薩立像(520.5cm、13世紀・鎌倉時代)
・仏頭(98.3cm、天武14年(685)・白鳳時代)
・十大弟子立像(144.3~152.7cm、天平6年(734)・奈良時代)
・八部衆立像(148~155.4cm、天平6年(734・奈良時代))(国宝館のパンフレットより)
・金剛力士立像(定慶作、阿形154cm・吽業153.7cm、桧材・寄木造・彩色・玉眼、12~13世紀・鎌倉時代)
・天燈鬼立像・龍燈鬼立像(龍燈鬼は康弁、天燈鬼78.2cm・龍燈鬼77.8cm、桧材・寄木造・彩色・玉眼、建保3年(1215)・鎌倉時代)
・千手観音菩薩立像(520.5cm、13世紀・鎌倉時代)
・仏頭(98.3cm、天武14年(685)・白鳳時代)
・十大弟子立像(144.3~152.7cm、天平6年(734)・奈良時代)
・八部衆立像(148~155.4cm、天平6年(734・奈良時代))(国宝館のパンフレットより)
◆阿修羅立像
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八部衆のうち、阿修羅立像(絵ハガキをコピー)
八部衆のうち、阿修羅立像(絵ハガキをコピー)
脱活乾漆造 像高153.4cm
阿修羅はインド神話に登場する戦闘の神で、仏教に帰依してその守護神になった。一般的には激しい怒り顔で3つの顔と6本の腕をもつ姿に表されるが、興福寺の像には怒りや激しさが見えず、表情は繊細で内面的であり、腕と体が細い少年の姿で表される。その表情には懺悔という仏教で重要な宗教行為が反映されているとも推定される。(国宝館のパンフレットより)
※「阿修羅立像」を詠んだ短歌阿修羅はインド神話に登場する戦闘の神で、仏教に帰依してその守護神になった。一般的には激しい怒り顔で3つの顔と6本の腕をもつ姿に表されるが、興福寺の像には怒りや激しさが見えず、表情は繊細で内面的であり、腕と体が細い少年の姿で表される。その表情には懺悔という仏教で重要な宗教行為が反映されているとも推定される。(国宝館のパンフレットより)
◇天平の少女を抱くこともせず阿修羅が指にともす銀の灯(永井陽子)
◇月の夜に雄鹿はねむり境内を歩く阿修羅の板金剛(サンダル)のおと( 〃 )
◇少年のままなる阿修羅見て帰り今日あまじろき葱一把買ふ( 〃 )
◇鹿たちも若草の上(へ)にねむるゆゑおやすみ阿修羅おやすみ迦楼羅( 〃 )
◇阿修羅像の眉の愁ひを思ひしが若き愁ひは傲りにか似る(尾崎左永子)
◇早春の夜の幻は浄くして阿修羅の像の眉根(まよね)のかげり( 〃 )
◇興福寺少年阿修羅にかなしみを与へし仏師の背や広からむ(水原紫苑)
◆迦楼羅(かるら)立像
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八部衆のうち、迦楼羅立像(絵ハガキをコピー)
八部衆のうち、迦楼羅立像(絵ハガキをコピー)
脱活乾漆造 像高149cm
迦楼羅はインド神話にみる蛇を喰う鳥で、伎楽などにも登場する。鶏頭をもつ半獣半人像で、嘴を強く尖らせている。瞳に黒い石(あるいはガラス)をはめ、緊張した面持ちである。いま頭頂部が破損して内部の心木が見える。(国宝館のパンフレットより)
※「迦楼羅立像」を詠んだ短歌迦楼羅はインド神話にみる蛇を喰う鳥で、伎楽などにも登場する。鶏頭をもつ半獣半人像で、嘴を強く尖らせている。瞳に黒い石(あるいはガラス)をはめ、緊張した面持ちである。いま頭頂部が破損して内部の心木が見える。(国宝館のパンフレットより)
◇よく見れば左手首のない迦楼羅 朱雀大路に春は来たりて(永井陽子)
◇陽が落つる奈良油坂不可思議な楽をまとひて迦楼羅は来たる( 〃 )
◇修復を終へし迦楼羅のスカーフを風が結んでやりたるこよひ( 〃 )
◇鹿たちも若草の上(へ)にねむるゆゑおやすみ阿修羅おやすみ迦楼羅( 〃 )