5/22(水)、見仏2日目はトヨタレンタリース奈良〈JR奈良駅前店〉でヴィッツをレンタルし、次の順に各寺院をまわりました。(走行距離95km)
室生寺(宇陀市)→長谷寺(桜井市)→聖林寺(〃)→安倍文殊院(〃)→白毫寺(奈良市)→新薬師寺(〃)
室生寺(宇陀市)→長谷寺(桜井市)→聖林寺(〃)→安倍文殊院(〃)→白毫寺(奈良市)→新薬師寺(〃)
室生寺(再)
受付で「室生寺『寳物殿』建立 重文『弥勒堂』全面改修 浄財勧募のお願い」というリーフレットをいただきました。境内の整備事業はすでに始まっており、室生寺は数年のうちに大きく変わるだろうと感じました。 鎧坂を登り、弥勒堂に行くと、「釈迦如来坐像は出陳中」との案内表示。弥勒堂は全面改修される計画なので、釈迦如来坐像は改修が終了するまで戻ってこないかもしれません。(戻っても、弥勒堂ではなく、寳物殿に展示されるかもしれません)
次に、金堂を拝観しました。金堂では諸仏の光背が取り除かれ、エアブラシでの清掃作業が行われていました。6月18日に開会する、東京国立博物館の特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」(~9/23)への出展準備が始まっていました。室生寺からは、金堂の十一面観音菩薩立像・地蔵菩薩立像・十二神将立像(巳神・酉神)、弥勒堂の釈迦如来坐像が出展されます。
特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」の概要は、以下の通りです。
次に、金堂を拝観しました。金堂では諸仏の光背が取り除かれ、エアブラシでの清掃作業が行われていました。6月18日に開会する、東京国立博物館の特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」(~9/23)への出展準備が始まっていました。室生寺からは、金堂の十一面観音菩薩立像・地蔵菩薩立像・十二神将立像(巳神・酉神)、弥勒堂の釈迦如来坐像が出展されます。
特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」の概要は、以下の通りです。
奈良県北東部に所在する岡寺、室生寺、長谷寺、安倍文殊院の四寺(よじ)は、いずれも7~8世紀に創建された古刹で、きわめて魅力に富んだ仏像を伝えています。奈良時代に流行した木心乾漆造の岡寺・義淵僧正坐像、平安時代初期の重厚な特色を備える室生寺・釈迦如来坐像、鎌倉時代に高度な技術で造られた長谷寺・十一面観音菩薩立像、安倍文殊院本尊の像内に納められていた文書など国宝4件、重要文化財9件を含む名品を展示します。卓越した造形と厚い信仰を物語るみほとけをぜひご堪能ください。(特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」リーフレットより)
なお、金堂の係の僧侶によると、十一面観音は東京での展示後、金堂には二度と戻らないそうです。寳物殿に安置されることになっているそうです。今回の見仏は、金堂における十一面観音の見納めということで、貴重な経験になりました。なお、弥勒堂の釈迦如来坐像と同様、十一面観音も寳物館の完成までは奈良国立博物館に預けられるようです。
【金堂】
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平安時代初期(国宝)
金堂は、正面側面ともに5間の単層寄棟造り柿葺。内陣には、堂々とした一木造りの御本尊・釈迦如来立像(平安初期・国宝)を中心に、向かって右側に薬師如来像(平安初期・重文)、地蔵菩薩像(平安時代・重文)、左側に文殊菩薩像(平安初期・重文)、十一面観音菩薩像(平安初期・国宝)の各像が並び、その前に運慶の作と伝えられる十二神将像(鎌倉時代・重文)が一列に並べられている。とくに左側に立つ華麗な十一面観音像は、ほぼ等身大の一木造りの像で、作風は本尊に近く洗練された感覚と技巧の作として注目される。本尊の背後にある大きな板壁には、珍しい帝釈天曼荼羅図(平安初期・国宝)が画かれている。(室生寺のリーフレットより)
※金堂は、正面側面ともに5間の単層寄棟造り柿葺。内陣には、堂々とした一木造りの御本尊・釈迦如来立像(平安初期・国宝)を中心に、向かって右側に薬師如来像(平安初期・重文)、地蔵菩薩像(平安時代・重文)、左側に文殊菩薩像(平安初期・重文)、十一面観音菩薩像(平安初期・国宝)の各像が並び、その前に運慶の作と伝えられる十二神将像(鎌倉時代・重文)が一列に並べられている。とくに左側に立つ華麗な十一面観音像は、ほぼ等身大の一木造りの像で、作風は本尊に近く洗練された感覚と技巧の作として注目される。本尊の背後にある大きな板壁には、珍しい帝釈天曼荼羅図(平安初期・国宝)が画かれている。(室生寺のリーフレットより)
◆金堂の諸仏
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左から、十一面観音立像、文殊菩薩立像、本尊釈迦如来立像、薬師如来立像、地蔵菩薩立像(室生寺HPより)
左から、十一面観音立像、文殊菩薩立像、本尊釈迦如来立像、薬師如来立像、地蔵菩薩立像(室生寺HPより)
釈迦如来立像
堂々とした平安前期を代表する榧(かや)の一木像である。本来は薬師如来として造立されたもので、均整の整ったこの像の、特に朱色の衣の流れるような衣紋は漣波式と呼ばれる独特のもので、この様式を室生寺様と称している。光背には七仏薬師や宝相華・唐草文が華やかに描かれている。
十一面観音菩薩立像
装飾的で女性的な優しさの漂うこの像の作風は、本尊に近い室生寺様。本尊の本来の脇侍として造られたものと考えられている。八重蓮華座と呼ばれるこの台座は、後世の補作の部分はあるものの、平安前期の様式を良く伝えて美しい。
地蔵菩薩立像
室生寺から伝来したという室生村中村区安産寺の地蔵菩薩像の様式は、室生寺金堂本尊に極めて良く似た漣波式の室生寺様で同じ系統の優品である。一方、室生寺金堂の地蔵像は光背に比べて像が小さく、これを安産寺の像に変えると違和感が無いことから、これが金堂の脇侍であったと考えられる。六地蔵や宝相華などを華麗に描いたこの光背は地蔵菩薩像より大きく、本来は近在の安産寺に移された室生寺様の地蔵像の光背で、この地蔵と先の十一面観音が本尊の脇侍であった。
薬師如来立像・文殊菩薩立像
金堂に安置されている五尊のうち、本尊の両側に置かれているのがこの二尊で、いずれも10世紀の一木造りであるが、大きさや作風に相違があり、江戸時代の中期に他の堂から移されたと考えられている。
十二神将立像
薬師如来の眷属として12の方角を守るこれらの像は、頭上に十二支を付ける。誇張のある自由な姿態の表現は鎌倉中期の特色で、この時期の代表作である。(室生寺HPより、一部改編)
※堂々とした平安前期を代表する榧(かや)の一木像である。本来は薬師如来として造立されたもので、均整の整ったこの像の、特に朱色の衣の流れるような衣紋は漣波式と呼ばれる独特のもので、この様式を室生寺様と称している。光背には七仏薬師や宝相華・唐草文が華やかに描かれている。
十一面観音菩薩立像
装飾的で女性的な優しさの漂うこの像の作風は、本尊に近い室生寺様。本尊の本来の脇侍として造られたものと考えられている。八重蓮華座と呼ばれるこの台座は、後世の補作の部分はあるものの、平安前期の様式を良く伝えて美しい。
地蔵菩薩立像
室生寺から伝来したという室生村中村区安産寺の地蔵菩薩像の様式は、室生寺金堂本尊に極めて良く似た漣波式の室生寺様で同じ系統の優品である。一方、室生寺金堂の地蔵像は光背に比べて像が小さく、これを安産寺の像に変えると違和感が無いことから、これが金堂の脇侍であったと考えられる。六地蔵や宝相華などを華麗に描いたこの光背は地蔵菩薩像より大きく、本来は近在の安産寺に移された室生寺様の地蔵像の光背で、この地蔵と先の十一面観音が本尊の脇侍であった。
薬師如来立像・文殊菩薩立像
金堂に安置されている五尊のうち、本尊の両側に置かれているのがこの二尊で、いずれも10世紀の一木造りであるが、大きさや作風に相違があり、江戸時代の中期に他の堂から移されたと考えられている。
十二神将立像
薬師如来の眷属として12の方角を守るこれらの像は、頭上に十二支を付ける。誇張のある自由な姿態の表現は鎌倉中期の特色で、この時期の代表作である。(室生寺HPより、一部改編)
◆十一面観音菩薩立像
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木造彩色、像高196.2cm、平安時代初期(JR東海「うましうるわし奈良」キャンペーンポスターより)
木造彩色、像高196.2cm、平安時代初期(JR東海「うましうるわし奈良」キャンペーンポスターより)
そうやって金堂にたどり着くと、そこは仏さまの世界。平安時代初期に建てられて以来、1200年もの間、そこにありつづけた奇蹟の空間だ。これが仏の世界でなくて何であろう。静謐(せいひつ)という言葉が浮かんでくる。厳しく張り詰めた空気とは違い、しずかで、やすらかで、やさしく、全ての衆生を包み込んでくれる。
仏像は、衆生の祈りを書けられてこそ、本当の仏になるのではないか。ここに並ぶたくさんのお像はみな、本当の仏さまだと感じる。数多の人間が苦悩や願いを胸に抱えて、この山に参り、掌を合わせ、祈り、すがってきたのだろう。
十一面観音は向かって左の端に静かに立っておられる。衆生を見つめ、衆生を包み、その苦に寄りそってこられた観音さま。ふっくらした頬に、ちょっと付きだした紅色のおちょぼ口、瞳のふちに赤みが差している切れ長な眼、大きく飛び出す白毫(びゃくごう)、宝冠のかわいらしい花飾り、頭上のおだやかな菩薩面も厳しそうな瞋怒(しんぬ)面もみんなみんな美しい。そのお姿をじっと拝しているだけで、胸がいっぱいになる。もう大丈夫という気がしてくる。1200年間、観音さまがただそこにいつづけてくれたことに、深く深く感謝する。
目を閉じるといつでも、瞼の裏に、やわらかな赤褐色の仏の世界が現れる。私の中にも、観音さまはいつづけてくれる。観音さまは、いつも、やさしい。 (『大和路秀麗八十八面観音巡礼』より)
※仏像は、衆生の祈りを書けられてこそ、本当の仏になるのではないか。ここに並ぶたくさんのお像はみな、本当の仏さまだと感じる。数多の人間が苦悩や願いを胸に抱えて、この山に参り、掌を合わせ、祈り、すがってきたのだろう。
十一面観音は向かって左の端に静かに立っておられる。衆生を見つめ、衆生を包み、その苦に寄りそってこられた観音さま。ふっくらした頬に、ちょっと付きだした紅色のおちょぼ口、瞳のふちに赤みが差している切れ長な眼、大きく飛び出す白毫(びゃくごう)、宝冠のかわいらしい花飾り、頭上のおだやかな菩薩面も厳しそうな瞋怒(しんぬ)面もみんなみんな美しい。そのお姿をじっと拝しているだけで、胸がいっぱいになる。もう大丈夫という気がしてくる。1200年間、観音さまがただそこにいつづけてくれたことに、深く深く感謝する。
目を閉じるといつでも、瞼の裏に、やわらかな赤褐色の仏の世界が現れる。私の中にも、観音さまはいつづけてくれる。観音さまは、いつも、やさしい。 (『大和路秀麗八十八面観音巡礼』より)
【弥勒堂】
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鎌倉時代(重要文化財)
3間四方柿葺(こけらぶき)のこの堂は、修円が興福寺の伝法院を受け継いだものと伝えている。内部の須弥壇に安置された本尊の厨子入り弥勒菩薩立像(重文)は、平安時代初頭の優品で、脇壇には明快な衣紋が見事な、客仏の釈迦如来坐像(平安初期・国宝)が安置されている。(室生寺リーフレットより、一部改編)
※弥勒堂は全面改修が計画されています。3間四方柿葺(こけらぶき)のこの堂は、修円が興福寺の伝法院を受け継いだものと伝えている。内部の須弥壇に安置された本尊の厨子入り弥勒菩薩立像(重文)は、平安時代初頭の優品で、脇壇には明快な衣紋が見事な、客仏の釈迦如来坐像(平安初期・国宝)が安置されている。(室生寺リーフレットより、一部改編)
◆釈迦如来坐像
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木造彩色、像高106.3cm、平安時代初期(室生寺HPより)
木造彩色、像高106.3cm、平安時代初期(室生寺HPより)
奈良県の宇陀市山中にある室生寺は、平安時代初めの3棟の国宝建造物と3体の国宝の仏像をはじめ、たくさんの重要文化財を有する美しい古刹です。9世紀頃の作と思われる本像は、長い石段を上った左手にある弥勒堂内の向かって右側に安置されています。この像は客仏(きゃくぼとけ)とされ、造像の経緯や伝来は定かではありませんが、カヤノキの一木造りによる堂々とした像です。現在は釈迦如来坐像となっていますが、弥勒仏であったとする説もあります。
端正な顔立ちとともに、大波小波が織りなす翻波式と渦状の衣紋が全く破綻なく絶妙に織りなされて、たいへん人気の高いほとけさまです。現在は螺髪(らほつ)のない頭部ですが、おそらくは神護寺像のような大きな螺髪があったものと思われます。(籔内佐斗司『仏像礼讃』より)
※「釈迦如来坐像は出陳中」のため、拝観できませんでした。6月18日(火)から東京国立博物館で開催される、特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」(~9/23)で見ようと思います。端正な顔立ちとともに、大波小波が織りなす翻波式と渦状の衣紋が全く破綻なく絶妙に織りなされて、たいへん人気の高いほとけさまです。現在は螺髪(らほつ)のない頭部ですが、おそらくは神護寺像のような大きな螺髪があったものと思われます。(籔内佐斗司『仏像礼讃』より)
【灌頂堂(本堂)】
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鎌倉時代(国宝)
室生寺の本尊如意輪観音菩薩像(平安時代・重文)が安置される。ここは真言密教の最も大切な法儀である灌頂を行う堂で、真言寺院の中心であるところから本堂とも呼ばれ、延慶元年(1308)の建立。5間四方入母屋造りの大きな建築で、内陣と外陣を板扉で区画し、和様と大仏様の折衷様式を示す。正面に悉地院の扁額が掛けられる。(室生寺リーフレットより、一部改編)
※室生寺の本尊如意輪観音菩薩像(平安時代・重文)が安置される。ここは真言密教の最も大切な法儀である灌頂を行う堂で、真言寺院の中心であるところから本堂とも呼ばれ、延慶元年(1308)の建立。5間四方入母屋造りの大きな建築で、内陣と外陣を板扉で区画し、和様と大仏様の折衷様式を示す。正面に悉地院の扁額が掛けられる。(室生寺リーフレットより、一部改編)
◆如意輪観音菩薩像
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木造漆箔、像高78.8cm、平安時代(室生寺HPより)
木造漆箔、像高78.8cm、平安時代(室生寺HPより)
本堂正面の厨子に安置されるこの像は、穏やかな作風の桧の一木造り。観心寺・神咒寺の如意輪とともに日本三如意輪の一つと称されている。(室生寺HPより)
※【五重塔】
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五重塔を後方より望む
五重塔を後方より望む
平安時代初期(国宝)
総高16.1mと、屋外に建つ五重塔では最小のもの。勾配がゆるく軒の出の深い檜皮葺(ひわだぶき)の屋根は、朱塗りの柱や白壁と心地良い対象を保つ。平安時代初頭の建立といわれ、室生山中最古の建築である。この塔は頂上の相輪が珍しく、九輪の上には普通ならば水煙であるのに、これは宝瓶を載せて宝鐸を吊りめぐらせて天蓋を作ってあることなど、他に類がない塔である。平成10年(1998)、台風により損傷を蒙ったが、平成12年に修復、落慶した。(室生寺リーフレットより、一部改編)
※総高16.1mと、屋外に建つ五重塔では最小のもの。勾配がゆるく軒の出の深い檜皮葺(ひわだぶき)の屋根は、朱塗りの柱や白壁と心地良い対象を保つ。平安時代初頭の建立といわれ、室生山中最古の建築である。この塔は頂上の相輪が珍しく、九輪の上には普通ならば水煙であるのに、これは宝瓶を載せて宝鐸を吊りめぐらせて天蓋を作ってあることなど、他に類がない塔である。平成10年(1998)、台風により損傷を蒙ったが、平成12年に修復、落慶した。(室生寺リーフレットより、一部改編)
【奥の院】
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奥の院へ続く階段
奥の院へ続く階段
奥の院 御影堂
鎌倉時代(重文)
五重塔から奥へ、原生林に囲まれた胸突きの石段を登ると、舞台造りの位牌堂と弘法大師42才の像を安置した御影堂の前に出る。方3間の単層宝形造、厚板段葺で頂上に石造りの露盤が置かれているのがめずらしく、他に例を見ない建物である。(室生寺リーフレットより、一部改編)
※室生寺を訪れたのは3度目でしたが、初めて奥の院に行きました。御朱印をいただこうと思ったからです。奥の院は五重塔の少し先だろうと安易に考えていましたが、実際は急な階段が延々と続いていました。五重塔から奥へ、原生林に囲まれた胸突きの石段を登ると、舞台造りの位牌堂と弘法大師42才の像を安置した御影堂の前に出る。方3間の単層宝形造、厚板段葺で頂上に石造りの露盤が置かれているのがめずらしく、他に例を見ない建物である。(室生寺リーフレットより、一部改編)
最後の階段を登り奥の院に到着すると、なんとも言えない達成感を味わいました。そして、奥の院からの眺めの清々しさと、心地よい風に心が体が癒されました。
長谷寺(再)
室生寺の奥の院へ続く階段を登っている時、長谷寺の登廊(のぼりろう、399段)のことが頭に浮かび、今日長谷寺を訪ねるのはやめようと思いました。しかし、奥の院へたどり着いた時の達成感のおかげでしょうか? 駐車場に戻ると、カーナビで「長谷寺」を検索していました。 カーナビに従って長谷寺に向かうと、いつの間にか狭い門前通りに入っていました。対向車はそれほどありませんでしたが、参拝客が多く、迷惑をかけているようで心苦しく思いました。
前回同様「本尊大観音尊像春季特別拝観」期間(3/1-6/30)だったので、十一面観音菩薩立像の足下まで行くことができました。十一面観音の足に触れ、これまでの治療で体調がだいぶ良くなったこと、これからも根気強く治療を続けることを誓いました。
◆十一面観音菩薩立像
JR東海「うましうるわし奈良」キャンペーンHPより
木造、像高1,018cm、室町時代(長谷寺HPより)
お像は残念ながら幾度も火災にあったが、その都度、頭の上の頂上仏が焼け残り、新しいお像の胎内に納められてきた。それゆえ室町時代に造立された現在の観音さまにも、創建当初の霊力が宿っている。
さて、観音堂は大きな山を背負っている。その中から大きな大きな観音さまが、堂々と迎えてくれる。右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に水瓶(すいびょう)を持ち、大磐石に力強く立つ。錫杖は旅の姿をあらわす。シャランシャランと錫杖を鳴らして、衆生を救うために行脚されているのだ。
それにしても大きい。途方もなく大きい。10メートルを超す大きな木造仏である。たのもしい。右手のひらがこちらに向いていて、「さあ」と差し伸べてくれている。「どんな苦悩もどんな願いも受け止めてあげよう」と語りかけているようだ。こんなたのもしい観音さまを拝していると、やすらかな気持ちになる。
観音さまの足許でご縁を結ばせてもらう。どっしりと地におろす足は、丸みがあって厚い。撫でられてきた足の甲はつやつやだ。それにしても大きな御足。親指の爪の大きさだけでも10数センチ四方もある。今いちど観音さまのお顔を拝そうと首をそらして見上げても、お顔は遥か遠い。ああ、自分の存在が小さく小さくなって行く。(『大和路秀麗八十八面観音巡礼』より)
※さて、観音堂は大きな山を背負っている。その中から大きな大きな観音さまが、堂々と迎えてくれる。右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に水瓶(すいびょう)を持ち、大磐石に力強く立つ。錫杖は旅の姿をあらわす。シャランシャランと錫杖を鳴らして、衆生を救うために行脚されているのだ。
それにしても大きい。途方もなく大きい。10メートルを超す大きな木造仏である。たのもしい。右手のひらがこちらに向いていて、「さあ」と差し伸べてくれている。「どんな苦悩もどんな願いも受け止めてあげよう」と語りかけているようだ。こんなたのもしい観音さまを拝していると、やすらかな気持ちになる。
観音さまの足許でご縁を結ばせてもらう。どっしりと地におろす足は、丸みがあって厚い。撫でられてきた足の甲はつやつやだ。それにしても大きな御足。親指の爪の大きさだけでも10数センチ四方もある。今いちど観音さまのお顔を拝そうと首をそらして見上げても、お顔は遥か遠い。ああ、自分の存在が小さく小さくなって行く。(『大和路秀麗八十八面観音巡礼』より)
聖林寺(4回目)
2016年8月、初めて聖林寺を訪れました。以来、この寺の十一面観音に強く心を惹かれています。今回も十一面観音と一人で向き合うことができました。病状の経過報告をし、これからも見守ってくださいとお願いしました。なお、今回はご本尊の子安延命地蔵菩薩についても記述しました。◆十一面観音菩薩立像
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木心乾漆像、像高209.1cm、奈良時代末期(聖林寺HPより)
木心乾漆像、像高209.1cm、奈良時代末期(聖林寺HPより)
聖林寺HPより
階段を登ってゆき、いよいよ観音堂で十一面観音像にお目に掛かる。観音様は、そこに、すーっと立っておられた。その神々しさに圧倒される。自然に掌を合わさずにはいられない。奈良時代に造られた木心乾漆のお像。高い腰に、豊麗なお体、艶めかしいほどまろやかな指先。女性的な優美さと、男性的な威厳が共にある。仏さまであり神さまでもあるようだ。すべてを超越した圧倒的な存在感がある。人間の都合で取り巻く環境がいかに変わろうと、観音さまは常に美しく、尊厳を保ち、輝いておられたのだろう。(『大和路秀麗八十八面観音巡礼』より)
※◆子安延命地蔵菩薩
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石造、像高約2.4m(丈六の坐像=8尺)、江戸時代(聖林寺HPより)
石造、像高約2.4m(丈六の坐像=8尺)、江戸時代(聖林寺HPより)
本尊は、元禄時代に造られた丈六の大石仏。安産・子授けの祈願として有名です。左右の掌善・掌悪童子とともに地蔵三尊の形式をとっています。(聖林寺リーフレットより)
江戸の中頃、三輪の平等寺(大神神社の神宮寺の一つで平安の初め慶円上人によって創建され、中世から大御輪寺に代わって三輪明神の実権を握った)の長老玄心和尚が聖林寺に隠棲した。この頃から明治の神仏分離令によって神宮寺が滅びるまで、聖林寺と三輪の神宮寺の交流が繁く、天台寺院である妙楽寺の山内にありながら、聖林寺は真言宗の律院(戒律の厳しい寺)として後に述べる特異な性格を帯びることになるのである。
享保の頃、この寺の僧文春は女人泰産を願って一念発起、大石仏造像の願をかけて諸国行脚の旅に発つ。寺伝では、和尚自身の姉が幾度も出産で難儀をしたと伝えているが、江戸時代にはお産で苦しむ婦人がこの界隈にも多かったのであろう。現在の本尊、子安延命地蔵尊はこのようにして和尚の4年7ヶ月に及ぶ托鉢による浄財で造像された。造像にあたって地蔵菩薩が文春和尚の夢枕に立ち自ら仏師を指定したという。 爾来、安産と子授けのお地蔵さまとして人々に親しまれてきた。聖林寺の子授けの祈祷は大要を真言密教の法則に拠っているが、又この寺独自のものがあり、霊験あらたかである。(聖林寺HPより)
※江戸の中頃、三輪の平等寺(大神神社の神宮寺の一つで平安の初め慶円上人によって創建され、中世から大御輪寺に代わって三輪明神の実権を握った)の長老玄心和尚が聖林寺に隠棲した。この頃から明治の神仏分離令によって神宮寺が滅びるまで、聖林寺と三輪の神宮寺の交流が繁く、天台寺院である妙楽寺の山内にありながら、聖林寺は真言宗の律院(戒律の厳しい寺)として後に述べる特異な性格を帯びることになるのである。
享保の頃、この寺の僧文春は女人泰産を願って一念発起、大石仏造像の願をかけて諸国行脚の旅に発つ。寺伝では、和尚自身の姉が幾度も出産で難儀をしたと伝えているが、江戸時代にはお産で苦しむ婦人がこの界隈にも多かったのであろう。現在の本尊、子安延命地蔵尊はこのようにして和尚の4年7ヶ月に及ぶ托鉢による浄財で造像された。造像にあたって地蔵菩薩が文春和尚の夢枕に立ち自ら仏師を指定したという。 爾来、安産と子授けのお地蔵さまとして人々に親しまれてきた。聖林寺の子授けの祈祷は大要を真言密教の法則に拠っているが、又この寺独自のものがあり、霊験あらたかである。(聖林寺HPより)
安倍文殊院(再)
2016年以来、3年ぶりに安倍文殊院の渡海文殊を拝観しました。2017年に見た西大寺の渡海文殊に心惹かれていたので、今更安倍文殊院に行くこともないだろうと高を括っていました。時間に余裕があったので、ついでのつもりで安倍文殊院に立ち寄りましたが、ここで渡海文殊を拝観できてよかったと思います。7メートルという文殊菩薩騎獅像の大きさもさることながら、文殊菩薩の気高い表情に心惹かれます。◆渡海文殊菩薩群像
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獅子に乗り、4人の従者とともに海を渡って来迎する「渡海文殊」。中央に文殊菩薩、右へ善財童子・優填王、左へ須菩提・維摩居士が従います。(パンフレット「国宝 ご本尊 文殊菩薩」付録の写真をコピー)
獅子に乗り、4人の従者とともに海を渡って来迎する「渡海文殊」。中央に文殊菩薩、右へ善財童子・優填王、左へ須菩提・維摩居士が従います。(パンフレット「国宝 ご本尊 文殊菩薩」付録の写真をコピー)
文殊菩薩像
鎌倉時代・快慶作
木彫極彩色の騎獅像(7m・日本最大)で、本尊胎内墨書銘に安阿弥陀仏作即ち快慶作とあり、建仁3年(1203)に造立されました。又、胎内から発見された巻物「造立願文」(国宝)により承久2年(1220)4月12日に渡海文殊群像として開眼法要されたことが判明しています。
善財童子像
鎌倉時代・快慶作
その童顔をななめ右にふり返らせ無心に合掌しながら、軽快な足さばきで歩む姿の愛しべき童形で、文殊の智を求め得た法悦の状況を十二分に表現され、わが国童形彫刻中の第一位に推されています。
優填王(うてんおう)
鎌倉時代・快慶作
須菩提像(別名:仏陀波利三蔵)
鎌倉時代・快慶作
維摩居士(別名:最勝老人)
安土桃山時代・宗印作(安倍文殊院リーフレットより)
※鎌倉時代・快慶作
木彫極彩色の騎獅像(7m・日本最大)で、本尊胎内墨書銘に安阿弥陀仏作即ち快慶作とあり、建仁3年(1203)に造立されました。又、胎内から発見された巻物「造立願文」(国宝)により承久2年(1220)4月12日に渡海文殊群像として開眼法要されたことが判明しています。
善財童子像
鎌倉時代・快慶作
その童顔をななめ右にふり返らせ無心に合掌しながら、軽快な足さばきで歩む姿の愛しべき童形で、文殊の智を求め得た法悦の状況を十二分に表現され、わが国童形彫刻中の第一位に推されています。
優填王(うてんおう)
鎌倉時代・快慶作
須菩提像(別名:仏陀波利三蔵)
鎌倉時代・快慶作
維摩居士(別名:最勝老人)
安土桃山時代・宗印作(安倍文殊院リーフレットより)
文殊菩薩騎獅像(安倍文殊院HPより)
本堂の奥がそのまま宝物館になっているというベストな構造の文殊院では、内陣の奥に大きな扉が見え、その向こうにあの夢にまで見た獅子乗りの文殊が出る。正確に言えばまず獅子が見え、進んでいくと文殊がまさにあらわれるのである。
「うわあ、五台山だ!」
私は思わず中国の文殊の里、みうらさんと二人で出かけた山の名を口にした。右手に宝剣、左手に蓮を持ち、慈悲と力を二つながら保つマジカルなその姿があまりにもエキゾチックだったからだ。そしてその大きさ!
日本最大の騎獅像は高さ7メートル。剣は降魔という、いわゆる渡海文殊。それも快慶作。獅子のたづなを引くのは優填王、その前には歩く姿の善財童子、左には須菩提像に維摩居士。維摩以外はすべて快慶の手になるパーフェクトな猜玄貊亳修離掘璽鷓童臭瓩任△襦
16世紀後半に一度戦火で焼かれ、獅子は身代わりのようにして失われたが、再来した姿もまるで獅子舞の獅子のような様子で私には好ましい。全国の獅子舞の上には見えない文殊が乗っているのではないか、と妄想までふくらんだくらいだ。
さて、問題の文殊菩薩御自身だが、西大寺の文殊よりふっくらした顔つきで、私には男性的に見えた。したがって恋というよりは、颯爽としたかっこよさ、魔を祓うパワーの静かなみなぎり方にしびれるという感があった。
紹介者のみうらさんはしばらく文殊の前に座ったきり動かなかったが、やがて右後方に移動して壁を背に黙り込む。とにかく御対面の邪魔をしないという方針だ。
そっと近づいていくと、みうらさんはささやくように、
「ここから見ると最高だよ」
と言って席を譲ってくれた。座ってみるとなるほど左に頭を振った獅子と目が合う。
そのまま視線を上げていけば、文殊のまとった衣の左ひざあたりに豊かなドレープがあるのに注目せざるを得ない。柔らかく仕立てのいい生地。高貴な位がビジュアル化されている。
(中略)
「獅子、もうすぐ飛び出るね。柵を越えるよ」
みうらさんは想像の中で危ないものをよみがえらせようとしていた。だが、私もその想像世界にどっぷりつかりたくなって答えた。
「そのとき文殊は蓮の上に浮いて待つね」
「マトリックスでしょう」
みうらさんは満足げにそう言って微笑んだ。獅子が動きを予感させるからこそ、文殊の静けさが強調される。そしてその分、文殊の脳の内部で高速かつ微細に動き続ける思考回路のはたらきが迫ってくる。(いとうせいこう・みうらじゅん『見仏記ガイドブック』より)
※参考(西大寺の渡海文殊)「うわあ、五台山だ!」
私は思わず中国の文殊の里、みうらさんと二人で出かけた山の名を口にした。右手に宝剣、左手に蓮を持ち、慈悲と力を二つながら保つマジカルなその姿があまりにもエキゾチックだったからだ。そしてその大きさ!
日本最大の騎獅像は高さ7メートル。剣は降魔という、いわゆる渡海文殊。それも快慶作。獅子のたづなを引くのは優填王、その前には歩く姿の善財童子、左には須菩提像に維摩居士。維摩以外はすべて快慶の手になるパーフェクトな猜玄貊亳修離掘璽鷓童臭瓩任△襦
16世紀後半に一度戦火で焼かれ、獅子は身代わりのようにして失われたが、再来した姿もまるで獅子舞の獅子のような様子で私には好ましい。全国の獅子舞の上には見えない文殊が乗っているのではないか、と妄想までふくらんだくらいだ。
さて、問題の文殊菩薩御自身だが、西大寺の文殊よりふっくらした顔つきで、私には男性的に見えた。したがって恋というよりは、颯爽としたかっこよさ、魔を祓うパワーの静かなみなぎり方にしびれるという感があった。
紹介者のみうらさんはしばらく文殊の前に座ったきり動かなかったが、やがて右後方に移動して壁を背に黙り込む。とにかく御対面の邪魔をしないという方針だ。
そっと近づいていくと、みうらさんはささやくように、
「ここから見ると最高だよ」
と言って席を譲ってくれた。座ってみるとなるほど左に頭を振った獅子と目が合う。
そのまま視線を上げていけば、文殊のまとった衣の左ひざあたりに豊かなドレープがあるのに注目せざるを得ない。柔らかく仕立てのいい生地。高貴な位がビジュアル化されている。
(中略)
「獅子、もうすぐ飛び出るね。柵を越えるよ」
みうらさんは想像の中で危ないものをよみがえらせようとしていた。だが、私もその想像世界にどっぷりつかりたくなって答えた。
「そのとき文殊は蓮の上に浮いて待つね」
「マトリックスでしょう」
みうらさんは満足げにそう言って微笑んだ。獅子が動きを予感させるからこそ、文殊の静けさが強調される。そしてその分、文殊の脳の内部で高速かつ微細に動き続ける思考回路のはたらきが迫ってくる。(いとうせいこう・みうらじゅん『見仏記ガイドブック』より)
https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56378806.html
白毫(びゃくごう)寺(再)
白毫寺の絵葉書の解説文に「春には五色椿の他、数々の椿が境内を彩り、秋には紅と白の萩の花が咲きこぼれ、人々の心をなごませます」とあるように、ここは「花の寺」として知られています。そしてまた、とても怖い顔の閻魔さまがいるお寺としても有名です。今回は、閻魔さまの絵が描かれた御朱印をいただこうと思い、訪れました。◆閻魔王坐像
![イメージ 18]()
寄木造の彩色像、像高118.5cm・鎌倉時代(絵ハガキをコピー)
寄木造の彩色像、像高118.5cm・鎌倉時代(絵ハガキをコピー)
閻魔さまの絵入り御朱印。絵は印刷だったので、御朱印帳に糊付けしました。
新薬師寺(再々)
新薬師寺を訪れたのは、今回で6、7回くらいになると思います。「見仏記」を始める前、好きな仏像といえば、興福寺の阿修羅と東大寺戒壇堂の四天王、新薬師寺のバサラでしたから。で、見仏2日目の締めは新薬師寺にしました。◆薬師如来坐像
![イメージ 20]()
木造、像高約191cm、奈良時代~平安時代初期(新薬師寺HPより)
木造、像高約191cm、奈良時代~平安時代初期(新薬師寺HPより)
新薬師寺は、光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して天平19年(747)に壮大な伽藍を建立し、七仏薬師を造立したと「東大寺要録」にあり、7組の薬師三尊像が祀られていたと想像されます。また「続日本紀」によると、780年に落雷によって西塔や多くの諸堂が焼け、962年の台風で金堂以下の主要堂宇が壊滅したと記され、それ以後、新薬師寺は急速に衰退しましたので、詳細な歴史は不明です。現在の本堂の建立時期は、創建時まで遡る可能性がありますが、当初は仏堂ではなく、後世に円形の土壇を築き、現在の諸仏が安置されたものと思われます。
本尊の薬師如来は平安時代初めの特徴を持ち、カヤノキで造られ、膝前部の材木を横材ではなく、縦に並べて体幹部と木目を合わせて、まるで一本の木で制作したかのように見える木取りをしており、白檀の一材ですべてを彫り出す檀像彫刻を意識した構造として注目されます。現在は、東大寺末寺として境内整備も進み、古寺の風情が漂う寺院のひとつになっています。(籔内佐斗司『仏像礼讃』より)
※本尊の薬師如来は平安時代初めの特徴を持ち、カヤノキで造られ、膝前部の材木を横材ではなく、縦に並べて体幹部と木目を合わせて、まるで一本の木で制作したかのように見える木取りをしており、白檀の一材ですべてを彫り出す檀像彫刻を意識した構造として注目されます。現在は、東大寺末寺として境内整備も進み、古寺の風情が漂う寺院のひとつになっています。(籔内佐斗司『仏像礼讃』より)
◆十二神将のうち、伐折羅(バサラ)大将像
![イメージ 21]()
塑像、像高約162cm、奈良時代(新薬師寺HPより)
塑像、像高約162cm、奈良時代(新薬師寺HPより)
塑像の十二神将は、台座裏から「天平」の文字が確認されていますので、制作時期は天平時代で間違いないと思われますが、当初から新薬師寺に安置されていたかは定かではありません。また十二神将は、江戸時代の地震でかなり損傷したと思われます。明治以降に修復されましたが、一部造形的に不整合な点も見られます。とくに宮毘羅(クビラ)大将像は大破していましたので、昭和6年(1931)に細谷而楽氏によってまったく新しく造られたものです。素晴らしい技量で復元されていますので、外面的にはまったくほかの像と遜色はありませんが、残念ながらこの1体のみ、国宝の指定から除外されています。(籔内佐斗司『仏像礼讃』より)
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