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俳句4句

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一昨日、近所の方(81歳)が亡くなり、今日はその方のお通夜でした。式場のエントランスには故人の遺影とともに、彼女の俳句の短冊が飾られていました。
いい句だなぁと思ったので、以下に引用します。

同姓の並ぶ集落曼珠沙華
芋の葉に子いもをのせて抱いて来し
夫の忌の供華となしたり初紅葉
ぶどう剪る空の藍までつかみけり


「SEAL」のバッグが届きました。

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一昨日、注文しておいた「SEAL(シール)」のビジネスバッグ「デザイナーズビジネスバッグ」が届きました。手持ち・肩掛け・ショルダーの3WAYの使い方ができるのと、容量の大きさが気に入った点です。「SEAL」のトートバッグ「ストライプトートバッグ」と形が似ており、どちらにするか迷いましたが、このバッグの赤い持ち手が決め手になりました。

『国井律子のハーレー日本一周 20代最後のひとり旅』を読みました。

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今日、『国井律子のハーレー日本一周 20代最後のひとり旅』(07)を読み終えました。
彼女の旅の相棒は1999年製のハーレー・ダヴィッドソン、スポーツスター。2004年4月から旅を始め、旅と東京での生活を織り交ぜながら、約半年かけて日本をほぼ一周しました。
以下、この本の目次を引用しますが、これを見れば彼女の旅の軌跡がわかると思います。
 ◇プロローグ オートバイに乗る以前の私は
 ◇旅が教えてくれたこと
 ◇温かくて、優しい(04年4月 小豆島)
 ◇旅の日曜日(04年4月 別府)
 ◇うさぎを乗せた船(04年4月 奄美)
 ◇北を想う(04年8月 根室)
 ◇ビールの美味しい飲み方(04年8月 層雲峡)
 ◇この夏、世界で一番熱い場所(04年8月 礼文島)
 ◇北国の温泉郷にて思う(04年9月 乳頭温泉)
 ◇エピローグ 3回目の春に 

◆「プロローグ」の最後に以下のような文章がありました。僕も同感です。どこかへ行かなくたって、今ここにいることも旅なんだと、旅の途中なんだと思います。
 この旅の途中、私はふと想像した。きっとまた幾ばくかのお金を手に入れ、ある程度溜まったらどこか遠い場所を旅して、再び東京に戻るんだろう、と。そう考えると東京にいる間も旅なのだ。
 私が生きている限り、いつだって旅なのだ。
◆とはいえ、僕もバイクで旅に出たいと思います。しかし、事故のリスクや体力のことを考えたら、車で行った方がいいかも。

虫武一俊歌集『羽虫群』を読みました。

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虫武一俊(むしたけ・かずとし、1981-)の歌集『羽虫群』(16)を読みました。
犠呂ら順に読んでいくと、孤独な青年(「ひきこもり」だったかもしれません)が少しずつ人や社会と繋がっていく様子が描かれています。僕からしたら、とても新鮮に見える表現も多く、くり返し読みたくなる歌集です。

この歌集について、本人による「あとがき」の一部を引用します。
 自分は何者にもなれないということにようやく気がついたとき、20代も半ばをとうに過ぎて、広野に立ち尽くしているような心地だった。自分なりに積み上げてきたと思っていたものは、そもそも最初から実態がなく、文字通り何も手にしていないところから、人より遅い始動をしなくてはいけなかった。
 短歌と出会ったのはそうしたなかでのことで、決められた形式のあることは、他人へのアプローチやアピールをしなくても一応の完成形という手応えをもたらし、まだ人と上手く関われなかった私の性にあった。その後、インターネットを通じたり実際に顔を突き合わせたりしながら、数々の歌会や批評会に参加することになるのだから、人と関わっていけるようになることにおいて短歌が果たしてくれた役割は大きかった。
 アピールできるほどの自己はいまもってないが、短歌においてはその「何も持っていなさ」が武器になることがあると思っている。世間一般では真っ先に排除される「弱み」が、短歌という枠組みを与えられることで、別の側面からの価値観を見せることができる。弱いことや負けることがマイナスに語られがちな日々のなかで、そこに沈みがちだった私が短歌によって掬い上げられたことは、本当に幸運だったと思う。
 本書は2008年から2015年にかけて作った歌から、既発表・未発表作あわせて308首を選んで収録しています。発表の時系列にはこだわらず編集し、また既発表作においても一部順序の再編や言い回しの訂正を行っています。

以下、一読して気になった歌を引用したいと思います。


 生きかたが洟かむように恥ずかしく花の影にも背を向けている
 雑草の味を知るかと雑草にすごまれる どこへ行けというのか
 殴ることができずにおれは手の甲にただ山脈を作りつづける
 ジャム売りや飴売りが来てひきこもる家にもそれなりの春っぽさ
 しあわせは夜の電車でうたた寝の誰かにもたれかかられること

 自販機の赤を赤だと意識するたまにお金を持ち歩くとき
 飲み込んだ言葉がきっとあるはずのカウンセラーよ 駅まで雨だ
 くだり坂ばっかりだったはずなのにのぼってきたみたいにくるしい
 現状を打破しなきゃって妹がおれにひきあわせる髭の人
 ドーナツ化現象のそのドーナツのぱさぱさとしたところに暮らす

 なにもかも符牒みたいで両親の天気の話から逃げだした
 眼を閉じて屋根の向こうの星叩く この世は永遠の暇潰し
 あすはきょうの続きではなく太陽がアメリカザリガニ色して落ちる
 貼り紙は裂け目のひとつから破け人を裏切ることの爽快
 入り組んだ団地を歩く さびしさが寂寥になるための過程に

 空き缶に生きたあかしを蹴り刻む明日死ぬってわけではないが
 喪失感まみれの夜にひとつひとつブロッコリーの毛を数えてる
 満開のなかを歩いて抜けてきたなにも持たない手にも春風
 「負けたくはないやろ」と言うひとばかりいて負けたさをうまく言えない
 剣豪のように両手にハンガーを構えてしまうひとときがある

 ロングシートにおにぎりを食う母子のいて四月電車のはずむ光よ
 捨てられずにきた憐憫の内側のむせ返るほど檸檬の匂い
 くれないの京阪特急過ぎゆきて なんにもしたいことがないんだ
 よれよれのシャツを着てきてその日じゅうよれよれのシャツのひとと言われる
 生活を追う日々にいて靴下の互いちがいに笑う二十二時

 防ぎようのなく垂れてくる鼻水のこういうふうに来る金はない
 空き缶を持ったまま行く春の夜の星と都市ではどちらが寒い
 ゆるやかに父が眉から老いていくかつてはわれを打ち据えた眉
 なんとなく生まれてしまい物陰にいろんな蓋を探す生涯
 硬い風に窓の震える日の暮れもバナナの筋は全部取りたい

 食塩に海を覚えるゆで卵 このおれはだれのためのこのおれ
 始めたら終わる世界で夕立は優等生の激しさを持つ
 生きる、そのための潤みの足りなさに視線を奪われる夜の川
 乗せたまま投げたのだからうつくしいあきらめとして匙をこぼれろ
 立ち直る必要はない 蝋燭のろうへし折れていくのを見てる

 傷つけてしまう怖れに水ばかり見ていたような春がまた来る
 一語一語をちゃんと区切って話されてなにが大事なことだったのか
 悪口を言うさびしさにくちびるを何度も舐めてしまうはつなつ
 海でしょう、海でしょうって渡れないことを何度も確かめている
 たましいは水溶性と確信を深めてながく洗う浴槽

 手花火を咥えて踊る はじけるというおしまいのおもしろいこと
 謝ればどうしたのって顔ばかりされておれしか憶えていない


 ゆびで梳く自分の髪は頼りなく、愛なんて口ばしるなよ鳥
 革命を謳う落書き 旧館のトイレから見る空はまぶしい
 肩甲骨だって翼の夢をみる あなたはなにをあざけりますか
 いつも行くハローワークの職員の笑顔のなかに〈みほん〉の印字
 関西にドクターペッパーがないということを話して終わる面接

 この星の油断うつくし閉めるのを忘れた窓の桟に赤い葉
 十割る三がもののはずみで割りきれてしまって 叫び声がきこえる
 なにもかも午睡に貢ぎその夜を持たざる者として歩みたい
 いつ見ても遠いものだと思ってたセイタカアワダチソウの向こうの
 雨という命令形に濡れていく桜通りの待ち人として

 夜景にも質感のあるこの夜をこの夜を忘れるな手のひら
 生きていくことをあなたに見せるときちょうど花びらでも降ればいい
 ゲッツーに倒れたように晩秋は終わりそれぞれ遠くを思う
 ハローお前らご機嫌ですかカクテルの薄いレモンで唾がとまらん
 またお会いしましょう 棚の裏側でビンのキャップが見つかるように

 思いきってあなたの夢に出たけれどそこでもななめ向かいにすわる
 本名をいつかあなたに教えたいその真夜中の港のにおい
 ふたりきりになっていったいどうしたらいいのかと思う のびなさい麺
 それなりに所有をしたいおれの眼に九月の青空はうすく乗る
 恥ずかしく祭りにひとり来てしまい割り箸がとてもきれいに割れる

 「待たせたな」もうすぐカッコつけながら来るはずおれのなかの勇気は


 「ふつう」ってなんなんだろう 扇風機の〈中〉はそこそこ部屋を散らかす
 さくらでんぶのでんぶは尻じゃないということを憶えて初日が終わる
 人生は運 飲み会と飲み会のすき間でオリオン座が見えている
 もう堪えきれなくなって駆け込んだ電車のつり革の赤いこと
 はやく家に帰ろう街の電柱がみんなアルデンテに見えてくる

 くるえない今日は黙って微笑んでいましょう目には花弁をためて
 労働は人生じゃない雨の日を離れてどうしているかたつむり
 大丈夫かどうかはおれが決めていく一年前の飴はにちゃにちゃ
 パインアメは吹いても鳴らず予報では明日この街に初雪が降る
 じゃがりこで生き延びたあとその味にまみれた指をこすり合わせる

 滅べとは言えないだろうこの冬も夜空の遠いところを仰ぐ
 ブルーベリーガム嚙むほどにあたたかいあきらめに似た味になりゆく
 少しやさしくされると少し気になってしまう単純 靴下を脱ぐ
 水を飲むことが憩いになっていて仕事は旅のひとつと思う
 ににんがし、にさんがろくと春の日の一段飛ばしでのぼる階段

 物干しのブルージーンズ両脚を蹴りあげている春風のなか
 やっと五月。読みさしだったさみどりの歌集を持ってベランダに出る
 目の前に黒揚羽舞う朝がありあなたのなにを知ってるだろう
 生命を宿すあなたの手を引いて左京区百万遍交差点
 届かない言葉もあるということの手をかさねれば手だけの重さ

 奪いあう約束をして晩夏光粘りつくほどこの身にかかる
 まぼろしのプールサイドを駆け抜けて叱られたいと思う 陽炎
 忘れればみな美しい 夏空を千機万機の熱気球飛ぶ
 なにか夢を叶えたらしい友だちの缶コーヒーのお金も払う


 他人から遅れるおれが春先のひかりを受ける着膨れたまま
 期待とはこわれるまでの道すがら白いふくろをふわふわと踏む
 実力は時間に比例しないこと はなびらは集めてもはなびら
 逃げてきただけだったのににこにことされて旅って答えてしまう
 知りたくはなかったことを知る坂のフェンスと蔦の仲睦まじさ

 しんりん、と木々をまとめてゆくような冷たさにいくたびも頬は
 迷うよねしたくないことしかなくてドトールのある街はいい街
 ビターチョコレートを口に遊ばせてつめたい夜の月と目が合う
 こ・こ・で・は・な・い・ど・こ・か 九つ指を折り小指にしんと冬が来ている
 わけなんて知らないほうがいいこともある心臓を流れ降る雪

 「生きろ」より「死ぬな」のほうがおれらしくすこし厚着をして冬へ行く
 なんとしてもこの世にとどまろうとしてつぱつぱ喘いでいる蛍光灯
 紳士服売場におれが立っているその不自然を笑えスカーフ
 行き止まるたびになにかが咲いていてだんだん楽しくなるいきどまり

今日のドライブミュージック

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先日、BS朝日の《ベストヒットUSA》にキャンディス・スプリングスが出演していました。彼女の歌を聴くのは初めてでしたが、すぐに彼女のデビュー・アルバム“Soul Eyes”(16)を購入しました。
で、最近仕事の行き帰りに“Soul Eyes”を聴いています。ジャンルはジャズなのでしょうが、ソウルやR&Bの要素も感じる幅広い力を持った歌手だと思います。

【収録曲】
1 Talk To Me
2 Soul Eyes featuring Terence Blanchard
3 Place To Hide
4 Thought It Would Be Easier
5 Novocaine Heart
6 Neither Old Nor Young
7 Too Good to Last featuring Terence Blanchard
8 Fall Guy
9 The World Is A Ghetto
10 Leavin’
11 Rain Falling


Kandace Springs / キャンディス・スプリングス(Universal music Japan HPより)

■ナッシュビル出身、現在27歳のシンガー・ソングライター&ピアニスト。ビリー・ホリデイ、エラ・フィッツジェラルド、ニーナ・シモン、ロバータ・フラック、ノラ・ジョーンズなどに影響を受ける。
■ナッシュビルでセッション・シンガーとしてリスペクトされてきた彼女の父親スキャット・スプリングスの影響で、音楽に囲まれて育ち、10歳の時にピアノでメロディーを紡いでいる彼女を見てレッスンを勧めてくれたのも父であった。2002年にリリースされたノラ・ジョーンズのBlue Noteデビュー作『カム・アウェー・ウィズ・ミー』を父の友人がプレゼントしてくれ、そのアルバムを聴いたことが、当時のキャンディスにミュージシャンとしての魂に火をつけるきっかけとなる。
■そのノラ・ジョーンズのアルバム収録曲「ザ・ニアネス・オブ・ユー」に自らのアレンジを加えたものを、ナッシュビルで行われた音楽合宿で披露したキャンディスに、ライブの誘いがくるようになった。また同時期に作ったデモが、シャキーラ、クリスティーナ・アギレラなどへの楽曲提供や、まだ10代だったリアーナを発掘したことで有名なペアエヴァン・ロジャース&カール・スターケンの耳に止まる。そしてエヴァン・ロジャースはナッシュビルまでやってきて、プロダクションSRPと契約しないかとキャンディスにオファーしたが、当時まだ17歳だったキャンディスは家族とも相談し、歌手としてのキャリアをスタートさせるのはまだ早いという結論に至った。その後、ナッシュビルのダウンタウンにあるホテルで昼間は駐車場の仕事をし、夜にはラウンジでピアノの弾き語りをするという生活を送る。数年後、母親からエヴァンとカールに再び連絡してみるように言われ、ニューヨークに移住。真剣に楽曲制作とデモテープのレコーディングをするようになった。
■そして、ロサンゼルスのキャピトル・レコーズ・タワーで行われたBlue Note社長ドン・ウォズの主催するオーディションに出るチャンスが巡ってきたキャンディスは、ボニー・レイトの「アイ・キャント・メイク・ユー・ラヴ・ミー」(邦題:「夕映えの恋人たち」)の素晴らしいパフォーマンスを披露し、ドン・ウォズの心を奪った。そして見事にBlue Noteとの契約を結ぶこととなり、2014年にEP「Kandace Springs」でデビュー。
■そして2016年7月1日にデビュー・アルバム『ソウル・アイズ』をリリース。

セイコー のダイバーズウォッチを買いました。

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先日、セイコーのダイバーズウォッチ《プロスペックス》を買いました。自動巻だと高価なので、安価な「キネティック」(自動巻発電クオーツ)という駆動方式のものを選びました。

今年は数万円で買える時計をたくさん買いましたが、現在のところ、オリエントスターとこのセイコーのダイバーズウォッチがお気に入りです。

my 見仏記9~新薬師寺

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新薬師寺本堂。薬師如来坐像及び十二神将立像はここに安置されています。


これまで何度か新薬師寺を訪れましたが、注目するのはいつも伐折羅(バサラ)ばかりで、他の仏像にはほとんど興味を持ちませんでした。しかし、今回はいとうせいこう/みうらじゅん『見仏記』等のおかげで、他の仏像にも目を向けることができました。

薬師如来坐像及び十二神将立像(JR東海キャンペーンポスター)
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この写真のように、伐折羅と薬師如来を同時に見るのがお勧めです。また、正面から見ると、薬師如来のお顔が個性的で、とても親しみを感じます。

薬師如来坐像(木造 像高約191cm 奈良時代~平安時代初期 国宝)
 新薬師寺の本尊です。堂中央の円壇に、木彫の大きな薬師如来坐像が安置されています。
 頭と胴体など体幹部分は一本のカヤの木から彫り出され、手と足は同じカヤの木から寄せ木し、全体の木目を合わせ、一本の木から丸彫りした様に造られています。
 光背には宝相華樹が大きな葉を翻らせ花を咲かせながら上に伸び、花の上の六軀の小仏は本尊と併せて七仏薬師を示しています。
 薬師如来は東方浄瑠璃世界の仏さまです。菩薩として修行していたとき、体から光を出して世界を照らすこと、人々の不足を満たすこと、病気を癒すこと、正しい道に導くこと、災難を取り除くことなど、十二の願い事をたてました。右手は恐れを取り去る印相で、左手には薬壺を持っています。目は大きく開いています。
 穏やかで力強く、ふくよかな姿をされています。
 昭和50年の調査で、像の体内から平安初期の法華経(国宝)八巻が見つかりました。(新薬師寺HPより)

十二神将立像
 薬師如来は両脇に日光と月光の2菩薩と、さらにこれらを守る12の武将・十二神将を従えています。
 十二神将とは、薬師如来の世界とそれを信仰する人々を守る大将で、1体に7,000人の眷属(けんぞく:部下)を率いているといわれます。
 土壇の上で円陣に取り巻いて、お薬師さまを護衛しています。
 激しい怒りを表したほぼ等身大の立像で、我が国、最古最大の十二神将像です。
 また十二の方角をまもっていることから、干支(十二支)のしゅごしんとしても信仰されています。
 十二神将像の各名称が、国指定と新薬師寺指定と異なっています。
 新薬師寺の十二神将立像は塑像という土を用いた彫刻で、奈良時代の名品(1体は補作)です。
 塑像は木の骨組みに縄を巻きつけ、そこに藁をまぜた粘土をつけて大まかな形を造り、紙の繊維と雲母をまぜた土で上塗りしたもので、眼球は紺、緑、褐色のガラスの吹き玉で表現されています。表面は青、朱、緑、紫に繧 彩色(うんげんさいしき 同系統の色ごとに濃淡をつけて立体感を生み出す彩色法)され、現在でも部分的に色が残っています。(新薬師寺HPより)

伐折羅大将(JR東海キャンペーンポスター)
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左手は垂下して拳を開き、右手に剣を持つ。像高約162cm

◆グッズ・土産
・絵葉書「新薬師寺の国宝 薬師如来と十二神将」

my 見仏記10~安倍文殊院

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安倍文殊院本堂


本堂入口で、参拝コースA「本堂 国宝文殊菩薩」の拝観料金700円を支払うと、和室に案内されお抹茶とお菓子(手作りらくがん、吉野くず入り)の接待を受けます。それらを美味しくいただくと、さらに奥に案内され、「渡海文殊」等の説明となります。
文殊菩薩騎獅像を拝観することが目的でしたが、横に並んだ4人の脇侍もそれぞれ個性的で、長い時間じっくり拝観しました。

渡海文殊(とかいもんじゅ)
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 当山のご本尊文殊菩薩は獅子に乗り4人の脇侍を伴う渡海文殊【5像全てが国宝】のお姿です。鎌倉時代・建仁3年(1203年)に大仏師・快慶によって造立されました。
 渡海文殊は当山の本山である東大寺が、平安時代末期に平重衡によって焼打ち炎上させられ、大仏が再造立された際、大仏殿再建の象徴として、総責任者・重源上人の念持仏でもあった文殊様を、平安時代から東大寺の別格本山であった当山に造立し、東大寺総供養に法要する為であったと考えられています。(写真と解説:安倍文殊院HPより)

文殊菩薩騎獅像
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 木彫極彩色の騎獅像(高さ7叩ζ楮蚤隋砲如右手に降魔の利剣を持ち左手に蓮華を持ち獅子に乗った渡海文殊像です。文殊様の胎内墨書銘と胎内から発見された造立願文(国宝)により、建仁3年(1203)の快慶の作と判明しています。(写真と解説:安倍文殊院HPより)

獅子にまたがった日本最大の文殊菩薩(木造/鎌倉時代/像高198cm)
 文殊菩薩が乗っている獅子の足から、光背の先まで約7m。大きくて迫力がある。
日本最大の文殊菩薩だといわれている。頭部内に「建仁」「巧匠アン(梵字)阿弥」の文字が発見されたことから、快慶作だとされる。京都府・天橋立の「切戸の文殊」(智恩寺)、山形県の「亀岡の文殊」(大聖寺)と並び、日本三文殊の霊場「大和安倍の文殊さん」として名高い。獅子に乗り、4人の従者とともに海を渡って来迎する「渡海文殊」である。大きな獅子が、図体に似合わず今にも泣き出しそうな顔をしていて、なんだかユーモラスだ。(田中ひろみ『拝んでしあわせ 奈良の仏像100』より)

善財童子
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 文殊様の向かって右側に立つ善財童子は、「華厳経」入法界品に登場する純粋可憐な童子で文殊菩薩の教導を受け、仏の悟りを得るために、諸所の善知識を歴参することで知られている。(写真と解説:安倍文殊院HPより)

振り返る姿がかわいらしい童子(木造/鎌倉時代/像高198cm)
 文殊菩薩がまたがっている獅子の左右に立つ4人の侍者。文殊菩薩と同じく快慶の作。でも、維摩居士(ゆいまこじ)像だけは後世の桃山時代の補作である。普通は、善財童子、優填王(うでんおう)、最勝老人、仏陀波利三蔵だが、文殊院では「最勝老人」にあたる像を「維摩居士」、「仏陀波利三蔵」にあたる像を「須菩提」としている。文殊様に向かって右側の前に立つかわいい善財童子は、『華厳経』の最後の章「入法界品(にゅうほっかいぼん)」に登場する。インドのお金持ちの子に生まれたが、ある日仏教に目覚め、文殊菩薩の勧めにより旅に出てさまざまな指導者(善智識)53人を訪ね歩き、最後に普賢菩薩のところで悟りを開いたと描かれている。(田中ひろみ『拝んでしあわせ 奈良の仏像100』より)

◆グッズ・土産
・パンフレット「国宝 ご本尊 文殊菩薩」(写真3枚付き)

my 見仏記11~聖林寺

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聖林寺山門


ずいぶん田舎の小さな寺だなあ、こんなところに優れた仏像なんてあるんだろうか、というのが聖林寺(しょうりんじ)の第一印象でした。でも、十一面観音立像を目の前にした時、この旅はここで終わってもいいと思うくらい、素晴らしい仏像との出会いに感激しました。
売店で十一面観音立像のポスターを買いました。額装して部屋に飾るつもりですが、まったくのミーハーですね。

十一面観音立像

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 十一面観音は、よく知られているように、かつては三輪山・大御輪寺の本尊であった。大御輪寺は奈良時代の中頃、大神々社の最も古い神宮寺として設けられ、十一面観音はその本尊として祀られてきたという。明治になると神仏分離・廃仏毀釈の嵐が吹き荒れるが、既に幕末はその前触れがあったのであろう。十一面観音はじめの三体の仏像は慶応四年五月十六日、大八車で三輪からこの地に避難された。果たして、廃仏の波は三輪の神宮寺を呑んで、凡ての仏教関係の物は破壊し尽くされた。本尊の観音様がどのようにして、何のために祀られてきたか、今となっては知る由もない。観音さまに関した書類凡てが灰燼に帰したからである。当時聖林寺の住持は大心和尚であった。和尚は三輪流の十一面観音法(この観音さまの拝み方)の伝授を受けた唯一の人であり、観音さまは三輪流神道の正嫡が住む寺に移られたのである。(写真と解説:聖林寺HPより)

天平の傑作と名高い均整のとれた美しさ(木心乾漆造/奈良時代/像高約200cm)
 本堂左脇の階段を進むと、鉄筋のお堂のガラスの中に十一面観音立像が立っていらっしゃる。いかり肩で、まるで肩パットを入れているみたいしかも顔はにこりともせずに、威厳にみちている。切れ長の目が正面を見据え、怒っているようにも見える。木彫りで像の概形をつくり、その上に、漆に木粉等を混ぜた木屎漆(こくそうるし)を盛り上げて完成させた木心乾漆像。金箔が、まだらにはがれ落ちている。大神神社の神宮寺であった大御輪寺から移された客仏である。明治時代に来日した美術研究家のフェノロサが、この像を賞賛したことで知られるようになった。和辻哲郎はじめ多くの著名人が、この像を「天平彫刻の最高傑作」とほめたたえている。(田中ひろみ『拝んでしあわせ 奈良の仏像100』より)

◆グッズ・土産
・十一面観音立像ポスター及び絵葉書

my 見仏記12~薬師寺

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薬師寺金堂


3年前に薬師寺を訪れた時、東塔は解体工事中(平成21年~32年の予定)だったし、聖観音は石川県に御遷座中で「御分身」(レプリカ)しか見られませんでした。今回はレンタカーを使ったので、時間的に余裕ができ、薬師三尊と聖観音をゆっくり拝観することができました。

薬師三尊像

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金堂内部を外から覗く。中央に薬師如来、右に日光菩薩。

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手前から、日光菩薩立像、薬師如来坐像、月光菩薩立像。(JR東海キャンペーンポスター)

 新羅の半島統一といった国際情勢も影響して、7~8世紀の日本は不安定な時代でした。その雰囲気を象徴するかのように、飛鳥時代末期の非常に短い期間に花開いたのが白鳳文化でした。法隆寺などの飛鳥仏の造形とは明らかに違い、自然なバランスの肉体表現を持つ、きわめて完成度の高い造形を示しています。
 薬師寺は、今は奈良市西ノ京にありますが、もとは飛鳥地方の藤原京に建てられた寺院を前身とします。『日本書紀』によりますと、680年に天武天皇が皇后の病気平癒を願って発願し、平城遷都後に現在地に移転されました。
 薬師如来は、東の彼方の薬師浄土の盟主で、毎朝、日月をこの世に送り出す生命力の如来ですので、日光菩薩・月光菩薩が脇を固めています。この脇侍は、中尊を中心にほぼ完璧な鏡像関係(鏡で映したように完全に左右逆転している)をしており、完璧な三尊形式を構成しています。いずれも鼻梁が高く切れ長の美しい目が白鳳様式を特徴付けていますが、はたしてこの造形の源流はどこにあるのでしょう。(藪内佐斗司『仏像礼讃』より)

◇薬師如来といえば、普通左手に薬壺を持っているが、この像は持っていない。薬師如来が薬壺を持つようになるのは、平安初期以降のことだという。
◇(日光・月光菩薩は)片足に重心をかけ薬師如来を挟んで左右対称のように見えるが、よく見ると頭部と天衣の飾りに微妙な違いがある。(田中ひろみ『拝んでしあわせ 奈良の仏像100』より)

聖(しょう)観世音菩薩立像

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東院堂。聖観音はここに安置されています。

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聖観世音菩薩立像(薬師寺HPより)

貴公子のような美しい立ち姿(金銅/白鳳期・奈良時代の前半/像高188.9cm)
 東院堂の中央の大きな厨子に、安置されている聖観音菩薩。金堂の日光菩薩・月光菩薩と同じように黒光りし、衣が足にぴったりとまつわりついているが、腰はひねっておらず直立不動のお姿。衣は、左右対称。冠をつけているのではなく、高く結い上げられた頭髪の左右に唐草模様の飾りがあるのが珍しい。聖観音がよく手にしている蓮の花や水瓶は、持っていらっしゃらない。くっきりとした目鼻立ちで微笑されていて美しい。一説では、19歳で悲劇の死を遂げた有間皇子がモデルともいわれている(大津皇子がモデルという説もあり)。(田中ひろみ『拝んでしあわせ 奈良の仏像100』より)

◆グッズ・土産
・御守(東院堂)

my 見仏記14~秋篠寺

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秋篠寺南門


これまで何度か秋篠寺を訪ねましたが、本堂に置かれた多くの仏像がかもし出す雰囲気は感じつつも、伎芸天以外にはほとんど目もくれなかったように思います。今回は、伎芸天以外の仏像にも注目して見仏しました。
本尊の薬師如来を中心に、外側に向かって日光・月光菩薩、十二神将、不動明王、地蔵菩薩、帝釈天、そして伎芸天が配置されていました。もちろん、伎芸天の美しさが際立っていましたが、彼女だけがポツンと宝物館などに置かれていたとしたら、彼女の美しさもそれほどには感じないと思います。

本堂
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鎌倉時代の建立で、当時の和様仏堂の代表作の1つである。正面5間、側面4間。屋根は寄棟造、本瓦葺き。堂の周囲には縁などを設けず、内部は床を張らずに土間とする。正面の柱間5間は中央3間を格子戸、左右両端の間を連子窓とする。全体に保守的で簡素な構成で、鎌倉時代の再建でありながら奈良時代建築を思わせる様式を示す建物である。和様建築では柱上部の頭貫(かしらぬき)以外には貫を用いず長押を使用するのが原則だが、この建物では内法長押(うちのりなげし)の下に内法貫を使用し、内部の繋虹梁(つなぎこうりょう)も身舎(もや)側では柱に差し込むなどの新技法が使われている[2]。なお、建物内部の柱にも風蝕痕が残ることなどから、建立当初は建物前面の左右5間・奥行1間分を、壁や建具を入れない吹き放しとしていたと推定される。堂内には本尊薬師三尊像(重文)を中心に、十二神将像、地蔵菩薩立像(重文)、帝釈天立像(重文)、伎芸天立像(重文)などを安置する。(wikipediaより)

伎芸天立像(JR東海キャンペーンポスター)
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 秋篠寺は奈良時代の末、780年頃光仁天皇の勅願によって建立され、薬師如来を本尊とする寺であるが、伎芸天像もこの寺の創建の頃、他の多くの仏像とともに造顕されたものと思われる。しかしその後、平安時代の末、1135年兵火のために金堂等が焼失した際、この伎芸天像も御首部を残し御胴体が大きく破損し、鎌倉時代に於て再び御胴体が造られ現在のお姿を見るに到った。したがって現在のお像は御首部だけが奈良時代の作(乾漆造)であり、御頸部以下御胴体は鎌倉時代の作(寄木造)であるが、ともにきわめて写実的な作風をもって全体が統一され、かすかに憂いをおびた表情の優美さとともに肢体の豊満さと、まれに見る微妙な動きはこの天女像の大きな特色である。
 伎芸天に捧げるお祈りのことば「ナウマク マケイシバラヤ オン シマイシキャヤ ソワカ」
(「伎芸天写真」に添付されたリーフレット「秋篠寺 伎藝天像」より、一部改編)

東洋のミューズは芸の守護神(頭部:脱活乾漆造、体部:木造/頭部:奈良時代、体部:鎌倉時代/像高206.6cm)
 美しく色っぽいことで有名な伎芸天。「東洋のミューズ」とも呼ばれている。伎芸天の像が安置されているのは、日本の古寺ではここだけといわれている。兵火により、奈良時代につくられた乾漆造の頭部のみが残った。それで、体は鎌倉時代の寄木造りの補作。でも頭と体に不自然さは感じられない。この美しい伎芸天はシヴァ神が音楽に興じているときに、彼の髪の生え際から生まれたといわれている。だから唇をわずかに開き、歌を歌っているように見える。音楽やその他の芸の守護神とされる。2mもあり大柄だけれど、威圧感はない。左に首をかしげて、右下に顔を向けた目線が優しげである。目線の先に行くと、目があったような気がして、ドキッとした。(田中ひろみ『拝んでしあわせ 奈良の仏像100』より)

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以前同じ時期に訪ねた時は萩が満開だったように記憶していますが、今回はまだほとんど咲いていませんでした。

◆グッズ・土産
・伎芸天写真(4枚組)
・御守

my 見仏記15~観音寺

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観音寺本堂

台風10号接近の影響による雨の中、京田辺市にある観音寺に着きました。
庫裏の玄関口で声をかけると住職が現れ、本堂に案内されました。
そこで住職から観音寺の由来や十一面観音立像の説明を受けましたが、国宝の十一面観音立像を間近に拝観できたことは喜びとともに、驚きでもありました。観音寺の十一面観音立像は、前日拝観した聖林寺(しょうりんじ)の十一面観音立像と同じ木心乾漆造(もくしんかんしつづくり)だということ。また、観音寺は南山城(京都府)にあるけれど、ここの十一面観音立像は天平文化を代表する仏像だということを教えていただきました。

十一面観音立像(京田辺市観光協会HPより)

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 御本尊十一面観世音菩薩はこの普賢教法寺の御本尊で、古記録によりますと天平16年(744)安置されたものであります。天下泰平と国民豊楽の祈願をこめられた御霊像で、その後千二百余年の間、世の変遷につつがなくいまし、今にその御霊徳をおわかち下さって居るのであります。この十一面観音様は四種功徳、十種勝利と申しまして、我々の苦難をお救い下さる観音様のうちでも特にすぐれた御利益がお経にとかれて居ます。要約いたしますと、常に我々と共にあって、無病息災に、不時の災難をのがれさせ、種々の祈願を成就せしめるとの御誓願であります。(大御堂観音寺「略縁起」より)

 観音寺がある京田辺市は、京の南であったことから、古くは南山城と呼ばれ、近くを流れる木津川流域には、興福寺の末寺であった岩船寺、笠置寺、海住山寺、神童寺が建ち並ぶ。それらのお寺の中で、一番北にあたる観音寺は、興福寺の別院として大いに発展し、京都府にあって、奈良時代の天平文化の流れを伝える最北端の寺院であった。
 ゆえに観音寺には、天平文化の至宝と称される木心乾漆造の国宝・十一面観音像が伝えられている。
 古い記録によると、この十一面観音像は平安京ができるちょうど50年前の744年(天平16)に、良弁(ろうべん)上人が、この地に安置した仏像と伝わる。
 「木心乾漆造は、平安期の一木造や寄木造など彫るという技法ではなく、木を粗彫りし、内刳りをして、その上に漆を盛って造る技法になります。漆の厚さは薄いところで約5mm、厚いところで約2cmになります。天平時代独特の技法ですが、当時としては、莫大な費用と時間を要したと考えられています。」(観音寺・三神栄弘住職談)
 気品あふれる姿、慈悲に満ちた柔和な表情など、観音寺の十一面観音像は、天平文化の造形や特徴をまさに伝えている。
(出版社『絶対に訪ねたい! 京都の仏像 千年の都で美仏をめぐる。』より、一部改編)

 本像の像高は172.7センチ。8世紀後半の制作であり、一木造の心木の上に木屎漆(こくそうるし)を盛り上げて造形する木心乾漆造という技法を用いている。この技法は、骨組みをのぞくと基本的に漆を塗布した麻布だけを用いる脱活(だっかつ)乾漆像に比べれば、まだ安価で簡便だが、それでも木造に比べればはるかに高価かつ高度な技術を必要とするため、平安初期を最後に、制作されなくなってしまう。逆に言えば、この技法を用いた仏像は、非常に恵まれた環境下で制作されたことを示唆している。
 8世紀にこの技法を用いて制作された十一面観音立像の作例は、他に奈良の聖林寺の十一面観音立像しかない。この2つの像は、技術的に共通するのみならず、頭上の変化面が小さめに造形されている点、ともすると異様な感じをあたえがちな本面両側の脇面を省略している点も共通する。これら造形上の特徴は、日本人の平明さを好む志向を表しているという指摘もあり、その後の十一面観音像の典型を創作したという意味で、きわめて重要である。これはあくまで私見にすぎないが、観音寺像のほうが聖林寺像よりも、表情が温和で、より日本化しているように思える。いわば和風の美形である。
(出版社『完全保存版 日本の美仏 仏像はなぜ美しいのか?』より)

◆グッズ・土産
・十一面観音立像写真(2枚)

my 見仏記13~興福寺

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興福寺国宝館


最近読んだいくつかの歌集に興福寺の阿修羅や迦楼羅(かるら)を詠んだものがありました。で、今回は阿修羅だけじゃなく、八部衆の他の仏像にも注意を払おうと思いました。また、これまで、簡単にスルーしていた他の仏像達もじっくり見ようと思いました。

阿修羅像(JR東海キャンペーンポスター)

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守ってあげたくなる美少年仏像(脱活乾漆造/奈良時代/像高153.4cm)
 阿修羅は、もともとインド神話では戦いを好む悪神。帝釈天とよく戦闘したといわれる。釈迦の説法を聞いて、仏法を守護する八部衆の一人になったとはいえ、怒りの表情なのが一般的なのに、興福寺の阿修羅像は優しいお顔でまるで少年のような可憐な姿。鎧もつけず、半裸のうえに足もとは「板金剛(いたこんごう)」というサンダル。3つの顔と細くて長い6本の腕をもつ。脱活乾漆造で表情はとてもリアルに表現されており、3面みんな違う。私は向かって左の唇をかみしめている顔が、好き。今にも泣きそうに見えて、守ってあげたくなる。(田中ひろみ『拝んでしあわせ 奈良の仏像100』より)

※「阿修羅」を詠んだ短歌
天平の少女を抱くこともせず阿修羅が指にともす銀の灯(永井陽子)
月の夜に雄鹿はねむり境内を歩く阿修羅の板金剛(サンダル)のおと( 〃 )
少年のままなる阿修羅見て帰り今日あまじろき葱一把買ふ( 〃 )  
鹿たちも若草の上(へ)にねむるゆゑおやすみ阿修羅おやすみ迦楼羅( 〃 )
阿修羅像の眉の愁ひを思ひしが若き愁ひは傲りにか似る(尾崎左永子)
早春の夜の幻は浄くして阿修羅の像の眉根(まよね)のかげり( 〃 )
興福寺少年阿修羅にかなしみを与へし仏師の背や広からむ(水原紫苑)


迦楼羅(かるら)像(興福寺HPより)

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スカーフがおしゃれな八部衆の一員(脱活乾漆造/奈良時代/像高149.0cm)
 頭は鳥、体は人間という変わったお姿の「迦楼羅」は、サンスクリット語のガルーダを漢字で表したもの。ガルーダとは、インドの空想上の巨大鳥、金翅鳥(こんじちょう)のことで、鷲を神格化したものらしい。くちばし周辺を見ると、にわとりっぽい。でも耳は人間の耳だし、髪の毛もある。目頭が四角くなっている 目(しんもく)なので、怒っている形相だ。鳥なのに羽ではなく、手があり5本の指がついている。肩にはスカーフを巻いている。首に巻いているなら黄砂よけのためだと思うが、肩に巻いているとおしゃれっぽい。龍を常食として、害を与える一切の悪を食い尽くすといわれている。烏天狗は、この迦楼羅をもとにしているらしい。(田中ひろみ『拝んでしあわせ 奈良の仏像100』より)

※「迦楼羅像」を詠んだ短歌
よく見れば左手首のない迦楼羅 朱雀大路に春は来たりて(永井陽子)
陽が落つる奈良油坂不可思議な楽をまとひて迦楼羅は来たる( 〃 )
修復を終へし迦楼羅のスカーフを風が結んでやりたるこよひ( 〃 )
鹿たちも若草の上(へ)にねむるゆゑおやすみ阿修羅おやすみ迦楼羅( 〃 )
※三十三間堂の二十八部衆「迦楼羅王象」(檜材の寄木造/鎌倉時代/164cm)の制作者も興福寺の迦楼羅を見たんだろうか?


天燈鬼・龍燈鬼(東大寺HPより)

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龍燈鬼(左)、天燈鬼(右)(木造/鎌倉時代/像高:龍燈鬼77.8cm 天燈鬼78.2cm)

燈籠を担いだユーモラスな邪鬼
 四天王像に踏みつけられる邪鬼を、単体で立たせた像。運慶の子の康弁の作。天燈鬼像は、2本の角と3つの目を持ち、口を大きく開き、やや横目で前方をにらみ、左肩にまるでそば屋さんがそばを運ぶように燈籠を乗せている。「そこ、どけどけ~」とでも言っているようだ。龍燈鬼像は、頭上で燈籠を支えている。上目づかいで、ユーモラスな表情がかわいい。目と牙は水晶。ぎざぎざ眉は銅板、巻き付く龍の背びれは牛皮で、木以外の材料も使われている。鬼といいながら、角は見当たらない。天燈鬼が口を開けた「阿形」、ポーズは「動」、体は赤色。龍燈鬼は口を閉じた「吽形」でポーズは「静」、体の色は青と、対比してつくられている。(田中ひろみ『拝んでしあわせ 奈良の仏像100』より)

◆グッズ・土産
・八部衆絵葉書セット
・龍燈鬼・天燈鬼絵葉書
・阿修羅ストラップ

my 見仏記17~東寺(再)

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東大寺、新薬師寺、安倍文殊院、聖林寺、薬師寺、興福寺、秋篠寺、観音寺、平等院。
以上、今回の旅で訪ねたお寺です。そこでは、たくさんの優れた仏像との出会いがありました。
でも、最後は東寺に寄ろうと決めていました。ここで4か月ぶりに講堂の「立体曼荼羅」を拝観し、旅の締めくくりとしました。

講堂

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けっこうな雨だったので、人影はまばらでした。

立体曼陀羅

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立体曼陀羅配置図(東寺HPより)

立体曼陀羅
 密教の教えをわかりやすく表現したのが曼荼羅です。曼荼羅には、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅があり、それぞれ、理と智慧という教えを伝えています。
 その曼荼羅を、よりリアルに伝えるために、弘法大師空海は具現化することを構想しました。それが羯磨(かつま)曼荼羅。一般的に立体曼荼羅として知られているものです。
 弘法大師空海は、大日如来を中心とした21尊の仏さまを講堂の須弥壇に登場させました。曼荼羅の中心に大日如来が描かれているように、東寺の中心に大日如来を安置して、寺域を巨大な曼荼羅にレイアウトしたのです。
 立体曼荼羅は、当時、最も先鋭的なビジュアルだったに違いありません。
 大日如来を中心に五智如来。大日如来に対面して右側に、金剛波羅蜜多菩薩を中心にした五大菩薩、左側に、わが国に初めて紹介された不動明王を中心にした五大明王。須弥壇の四方には、四天王、そして梵天、帝釈天が警護するように配されています。
 その容姿、その色彩、その形相。どれほどセンセーショナルだったことか。立体曼荼羅を前に、平安の人々が感じた、驚き、恐れ。講堂の扉を開け、心を動かしてみてください。
(東寺HPより、一部改編)

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立体曼陀羅の中心、大日如来坐像(東寺HPより)

大日如来(だいにちにょらい)
 両界曼荼羅(金剛界と胎蔵界)の中心となる仏。密教において、毘盧舎那仏はさらに発展、展開し、密教世界の最高位に位置する絶対的な存在となりました。これが大日如来です。毘盧舎那仏と同じく、太陽の力を意味する「大光明遍照」という意味のサンスクリット語の名をもっています。
 日本では、平安時代から造像されました。立像の例はなく、如来でありながら髻(もとどり)を結って宝冠を頂き、胸には瓔珞(ようらく、ネックレス)、腕には臂釧(ひせん)や腕釧(わんせん、ブレスレット)という装飾品を菩薩のように身につけ、結跏趺坐します。
 金剛界の大日如来像は智拳印、胎蔵界の大日如来像は法界常印の印相を結び、瞑想にふける姿として造像されています。この印相で、2種の大日如来像の区別がつき、また菩薩像と大日如来像も見分けることができるのです。
 五智如来は、この大日如来を中心に東西南北に4如来を配したものです。
(石井亜矢子『仏像の見方ハンドブック』より)

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帝釈天は講堂の向かって左の端に安置されています。写真左端に象に乗った帝釈天が見えます。(東寺HPより)

帝釈天騎象像
 講堂の向かって左の端に安置されている帝釈天像は美男子として人気を集めている。講堂には、智拳印を組んだ金剛界大日如来を中心に21体の尊像が安置されているが、これらは空海が金剛界曼荼羅の諸仏を一堂に会したもので立体曼荼羅と呼ばれている。
 帝釈天像は、密教像で東大寺などに安置されている顕教の尊像とは異なる姿。象に乗り、右手に独鈷杵(とっこしょ)をもち、左手は拳を作って腰に当てている。右足は曲げて象の背に載せ、左足は下ろしている。もともと帝釈天は戦闘神であることから、薄手の鎧を身にまとっている。髪は高く結い上げ、切れ長の目をうつむき加減にした端正な容貌は正に美男子と呼ぶにふさわしい839(承和6)年の制作だが、顔は江戸時代に補作されたもの。像高は約110センチ。
(出版社『完全保存版 日本の美仏 仏像はなぜ美しいのか?』より)

イケメン部門第1位~帝釈天半跏像(帝釈天騎象像)
 イケメンな仏像といえば、やはり東寺の帝釈天が一番。すっきりしたお顔だちで、目は切れ長で涼しく、鼻もすっとしている。まさに、イケメンと呼ぶにふさわしい仏像である。頭部は後の時代の補作だというのに、体と違和感もなく自然に見える。
 帝釈天といえば元はインドの神様で、阿修羅と戦った戦闘の神様。だから一応、鎧は着ているけれど、持っている武器は小さな独鈷杵のみだし、足下を見ると裸足だし、片足を踏み下げた気楽な姿勢で、とても戦闘態勢には見えない。
 この帝釈天は、東寺の講堂の左隅にいらっしゃる。
 東寺の講堂に一歩足を踏み入れた瞬間、仏像の曼荼羅世界が広がる。普通は絵で表現される曼荼羅が、フィギュアのように立体的に並べられているせいか、まるで異空間に立っているよう。曼荼羅を全身で体感でき、まるで宇宙の中にいるような気さえしてくる。
 毎月21日に開かれる弘法市の日に訪れて、周りがすごい人でごったがえしていても、講堂の中だけはシーンとした張りつめた空気が流れている。
※ちなみに、イケメン第2位は興福寺の阿修羅立像、第3位は円成寺の大日如来坐像だそうです。
(『田中ひろみの勝手に仏像ランキング』より)

◆見仏のお伴はレンタカー
今回の見仏にはレンタカーを利用しました。おかげで、2日間で10ヶ寺も回ることができました。
当初、こちらから奈良まで自家用車で行く計画でしたが、体調や事故リスクなどを考え、新幹線+レンタカーにしました。今度、1週間以上の日程が可能になったら、奈良までプジョーで行こうと思います。

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トヨタ・ヴィッツ。奈良から京都まで2日間、何の支障もなく気持ちよく運転できました。小回りがきくので、狭い道路にも躊躇なく入っていけました。もちろん、燃費もいいです。(東寺にて)

my 見仏記10~安倍文殊院

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安倍文殊院本堂


本堂入口で、参拝コースA「本堂 国宝文殊菩薩」の拝観料金700円を支払うと、和室に案内されお抹茶とお菓子(手作りらくがん、吉野くず入り)の接待を受けます。それらを美味しくいただくと、さらに奥に案内され、「渡海文殊」等の説明となります。
文殊菩薩騎獅像を拝観することが目的でしたが、横に並んだ4人の脇侍もそれぞれ個性的で、長い時間じっくり拝観しました。

渡海文殊(とかいもんじゅ)
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 当山のご本尊文殊菩薩は獅子に乗り4人の脇侍を伴う渡海文殊【5像全てが国宝】のお姿です。鎌倉時代・建仁3年(1203年)に大仏師・快慶によって造立されました。
 渡海文殊は当山の本山である東大寺が、平安時代末期に平重衡によって焼打ち炎上させられ、大仏が再造立された際、大仏殿再建の象徴として、総責任者・重源上人の念持仏でもあった文殊様を、平安時代から東大寺の別格本山であった当山に造立し、東大寺総供養に法要する為であったと考えられています。(写真と解説:安倍文殊院HPより)

文殊菩薩騎獅像
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 木彫極彩色の騎獅像(高さ7叩ζ楮蚤隋砲如右手に降魔の利剣を持ち左手に蓮華を持ち獅子に乗った渡海文殊像です。文殊様の胎内墨書銘と胎内から発見された造立願文(国宝)により、建仁3年(1203)の快慶の作と判明しています。(写真と解説:安倍文殊院HPより)

獅子にまたがった日本最大の文殊菩薩(木造/鎌倉時代/像高198cm)
 文殊菩薩が乗っている獅子の足から、光背の先まで約7m。大きくて迫力がある。
日本最大の文殊菩薩だといわれている。頭部内に「建仁」「巧匠アン(梵字)阿弥」の文字が発見されたことから、快慶作だとされる。京都府・天橋立の「切戸の文殊」(智恩寺)、山形県の「亀岡の文殊」(大聖寺)と並び、日本三文殊の霊場「大和安倍の文殊さん」として名高い。獅子に乗り、4人の従者とともに海を渡って来迎する「渡海文殊」である。大きな獅子が、図体に似合わず今にも泣き出しそうな顔をしていて、なんだかユーモラスだ。(田中ひろみ『拝んでしあわせ 奈良の仏像100』より)

善財童子
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 文殊様の向かって右側に立つ善財童子は、「華厳経」入法界品に登場する純粋可憐な童子で文殊菩薩の教導を受け、仏の悟りを得るために、諸所の善知識を歴参することで知られている。(写真と解説:安倍文殊院HPより)

振り返る姿がかわいらしい童子(木造/鎌倉時代/像高198cm)
 文殊菩薩がまたがっている獅子の左右に立つ4人の侍者。文殊菩薩と同じく快慶の作。でも、維摩居士(ゆいまこじ)像だけは後世の桃山時代の補作である。普通は、善財童子、優填王(うでんおう)、最勝老人、仏陀波利三蔵だが、文殊院では「最勝老人」にあたる像を「維摩居士」、「仏陀波利三蔵」にあたる像を「須菩提」としている。文殊様に向かって右側の前に立つかわいい善財童子は、『華厳経』の最後の章「入法界品(にゅうほっかいぼん)」に登場する。インドのお金持ちの子に生まれたが、ある日仏教に目覚め、文殊菩薩の勧めにより旅に出てさまざまな指導者(善智識)53人を訪ね歩き、最後に普賢菩薩のところで悟りを開いたと描かれている。(田中ひろみ『拝んでしあわせ 奈良の仏像100』より)

◆グッズ・土産
・パンフレット「国宝 ご本尊 文殊菩薩」(写真3枚付き)

my 見仏記16~平等院

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台風10号接近による雨の中、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来を拝観しました。
鳳凰堂の阿弥陀如来を拝観するためには、平等院の拝観料の他に300円を支払い、指定された拝観時間まで待たなければなりません。その代わり、案内の方が付き、丁寧に説明してくれます。
今回は平日だったのでそれほど待ちませんでしたが、土日などは数時間待ちもあるとか。

鳳凰堂

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 永承7年(1052)、時の関白藤原頼通が、父 道長より譲り受けた別業を仏寺に改め、平等院としました。この年は末法初年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。その翌年の天喜元年(1053)には阿弥陀堂(鳳凰堂)が落慶し、堂内には、平安時代の最高の仏師定朝によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされています。約1000年前に建立された建造物や仏像が今に伝えられ、世界遺産にも登録されております。(平等院HPより)

阿弥陀如来坐像(平等院HPより)

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 像高277.2cm、髪際高242.3cm、木造、漆箔
 鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像は、日本の仏像作家を代表する仏師定朝によって平安時代後期、天喜元年(1053)に造られたものです。その構造技法は日本独自の寄木造りの完成した技法を示します。また表現の上でも日本独自の様式、いわゆる和様の完成を見せる点がたいへんに重要です。 頬がまるく張った円満な顔。伏目がちですが意外に大きな眼は拝む者を静かに見つめ、その表情はかぎりないやさしさにあふれています。胸をひいて背をわずかにまるめた姿勢には無理がなく、いかにも自然で、どこにも硬い緊張感がありません。(平等院HPより)

※我が家は浄土宗の檀家なので、ご本尊は阿弥陀如来です。しかし、4月以来の見仏旅で阿弥陀如来を拝観するのは今回が初めてでした。鳳凰堂の中は蒸し暑く、背中を汗が流れ落ちました。8月末だし、台風接近中でしたから仕方ありません。

◆グッズ・土産
・絵葉書4枚

《308CC》とお別れ

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突然ですし、けっこう恥ずかしいのですが、プジョー《308CC》とNEW《208アリュール》を手放すことにしました。これら2台を下取りに出し、NEW《308SWアリュール》を購入します。
つまり、
 《308CC》+NEW《208アリュール》→NEW《308SWアリュール》
ということです。
明日、《308CC》をディーラーに持っていくので、今日はお別れドライブと洗車をしました。ちなみに、《308CC》は4年、68,000km乗りました。

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職場にて。今朝は天気が良かったので、途中からカブリオレにして通勤しました。

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洗車店にて。洗車&記念撮影をしました。

《208アリュール》とお別れ

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明日、プジョーNEW《308SWアリュール》が納車になるので、今日はNEW《208アリュール》のお別れドライブと洗車をしました。

以下、今回のドタバタの顛末です。
308CC→208
 当初は《308CC》を下取りに出し、NEW《208アリュール》に乗り換えるつもりでした。
308CC+208
《308CC》への愛着やみ難く、2台を所有することにしました。
 しかし、NEW《208アリュール》に乗れば乗るほどその良さがわかり、逆に《308CC》への愛着が薄れていきました。
308CC+208→308SW
 2台所有するムダに気づいたので(遅すぎ!)、1台にすることにしました。当初は《308CC》だけを売却するつもりでしたが、NEW《308》の良さにも気づいたので、現在所有している2台を下取りに出し、NEW《308SW》を購入することにしました。

なお、NEW《208アリュール》は3か月半、5,800km乗りました。

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職場にて。今日がNEW《208アリュール》での最後の通勤になりました。

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洗車店にて。洗車&記念撮影をしました。

久々のステーションワゴン~プジョー《308SWアリュール》

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今日、プジョーNEW《308SWアリュール》が納車になりました。
プジョーのステーションワゴンは、これまで《406ブレーク》と《407SW》に乗ったで、これで3台目になります。
プジョー柏で《208アリュール》から《308SW》に乗り換え、常磐高速で初ドライブしました。スポーツモードにすると、計器が白から赤に変わり、一気に戦闘モード突入!です。《308SW》の1200ccターボエンジンは、《208アリュール》と排気量は同じですが、全く別物でした。このクルマなら九州にだって行けそうな気がします。

笠間でご飯茶碗を買いました。

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今日、仕事で笠間に行ったので、帰りに笠間焼のご飯茶碗2個と湯呑みを買いました。ご飯茶碗はどちらも自分用です。どちらにするか決めかねたので両方買いました。湯呑みは職場で使います。

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