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J.D.サリンジャー『フラニーとズーイ』を読みました。

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今日、J.D.サリンジャーの『フラニーとズーイ』(村上春樹訳、2014.3.1発行)を読み終えました。今後『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア―序章―』(新潮文庫)や『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社)などを読み、その後この作品を再読しようと思います。現時点ではうまく感想が言えません。

◆この作品は「フラニー」と「ズーイ」の2部構成になっています。「フラニー」は1955年11月の土曜日の朝からの、「ズーイ」はその2日後の月曜日の朝からの、それぞれ数時間の物語です。ストーリーは概ね以下の通りです。
 アメリカ東部の名門大学に通うグラス家の美しい末娘フラニーと俳優で五歳年上の兄ズーイ。物語は登場人物たちの都会的な会話に溢れ、深い隠喩に満ちている。エゴだらけの世界に欺瞞を覚え、小さな宗教書に魂の救済を求めるフラニー。ズーイは才気とユーモアに富む渾身の言葉で自分の殻に閉じこもる妹を救い出す。ナイーヴで優しい魂を持ったサリンジャー文学の傑作。──村上春樹による新訳!(新潮社ウェブページより)

◆ズーイは、彼自身と妹のフラニーが年の離れた2人の兄シーモア(1955年の時点で死後7年になる)とバディーの影響を強くを受けて育ったと意識しています。ですから、フラニーの苦悩の原因もそのせいだと考えています。以下はズーイの言葉です。
 僕らはフリークだ。まさに畸形人間なんだよ。あのろくでもない二人組が早いうちから僕らを取り込み、フリーク的な規範をせっせと詰め込み、僕らをフリークに変えてしまった。(P201)

◆サリンジャーは、フラニーやズーイなど7人の兄弟姉妹と両親からなるグラス家にまつわる作品を多く書いています。グラス家の人々について、この作品からわかることを簡単にまとめてみました。(1955年時点)
  ○シーモア(長男)……1948年、妻とフロリダに休暇旅行をしている時に自殺。(生きていれば38歳)
  ○バディー(次男)……「ライター・イン・レジデンス」(大学在籍作家)として女子短大に所属。36歳
  ○ブーブー(長女)……結婚し、3人の子供の母となっている。
  ○ウォルト(三男)……ウェイカーと双子。1945年、陸軍兵士として日本に進駐している時に爆発事故で死亡。
  ○ウェイカー(四男)……ローマ・カソリックの司祭
  ○ズーイ(五男)……俳優。25歳
  ○フラニー(次女)……大学生。20歳
  ○レス(父)
  ○ベッシー(母)

柴田元幸訳『ナイン・ストーリーズ』を買いました。

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先日、野崎孝訳『ナイン・ストーリーズ』を読みましたが、柴田元幸氏による新訳が出ている(2012.7)ことを知ったので、さっそく購入しました。

柴田訳『ナイン・ストーリーズ』には、村上春樹訳『フラニーとズーイ』がそうだったように「あとがき」や「解説」の類いは掲載されていません。巻末には「原著者の要請により」とありますが、サリンジャーが自分の本に自分の作品以外の余分なものを入れることを固く禁じているからです。
以下に別冊折り込みとして添えられている「訳者あとがき(の・ようなもの)」を引用します。

 小説を訳すのはいつでも「耳を澄ます」営みだが、この『ナイン・ストーリーズ』を訳していたときは、いつにも増して、語り手や登場人物の言葉や息づかいに耳を澄まし、彼らのしぐさや周りにあるいろんな物に目を凝らしていた気がする。暑い夏の午後に、薄暗い部屋にこもってこの小説を訳している自分が、ペンは持っているのだけれど何も書かずに、紙の向こうにいる人たちがくっきり見えくっきり聞こえてくるのを待っている姿が、ほとんど目に浮かぶ気がする。聴覚的にも視覚的にもできるだけノイズのないよう(結果はともかく志としては)努めた訳文を介して、世界に対してムカツいていたり、過剰な自意識を抱え込んでいたり、傷から癒えるすべを探っていたりするサリンジャー世界の人たちが、読む人の目の前に見えてくれば嬉しい。そうやって見えてきた人たちは、善人とか悪人とかいった「物語」的な判断を下される前の、いわば丸腰の個人である。そういう丸腰の個人を浮かび上がらせるのが小説のひとつの仕事だとすれば、『ナイン・ストーリーズ』ほどあざやかにその仕事をなしとげている小説もそうザラにないのではないかと思う。

【収録作品】( )内は野崎孝訳のタイトル
バナナフィッシュ日和(バナナフィッシュにうってつけの日)
コネチカットのアンクル・ウィギリー(コネティカットのひょこひょこおじさん)
エスキモーとの戦争前夜(対エスキモー戦争の前夜)
笑い男(笑い男)
ディンギーで(小舟のほとりで)
エズメに――愛と悲惨をこめて(エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに)
可憐なる口もと 緑なる君が瞳(愛らしき口もと目は緑)
ド・ドーミエ=スミスの青の時代(ド・ドーミエ=スミスの青の時代)
テディ(テディ)

J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』を読みました。

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今月末、ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー(1919-2010)の『フラニーとズーイ』の村上春樹による新訳が新潮文庫から刊行されるので、その前にサリンジャーの他の作品を何か読んでみよう思い、この『ナイン・ストーリーズ』(野崎孝訳)を読んでみました。

【収録作品】
バナナフィッシュにうってつけの日
 バナナフィッシュって何だろう? バナナフィッシュについて、シーモア・グラース(この作品では言及されていませんが、彼はグラース家の長男にあたります。)はビーチ(『フラニーとズーイ』によれば、フロリダ)で知人の娘シビルに以下のように話します。
「あのね、バナナがどっさり入ってる穴の中に泳いで入って行くんだ。入るときにはごく普通の形をした魚なんだよ。ところが、いったん穴の中に入ると、豚みたいに行儀が悪くなる。ぼくの知ってるバナナフィッシュにはね、バナナ穴の中に入って、バナナを78本も平らげた奴がいる」
「当然のことだが、そんなことをすると彼らは肥っちまって、二度と穴の外へは出られなくなる。戸口につかえて通れないからね」
「うん、言いにくいことだけどね、シビル、彼らは死んじまうんだ」
「それはね、バナナ熱にかかるのさ。これはとても怖い病気なんだ」

 シーモアはホテルの部屋へ戻るとトランクから自動拳銃を取り出します。そして、ベッドで眠っている妻ミュリエルの横に腰を下ろし、自分の右のこめかみを撃ち抜きます。突然の終わりは衝撃的でした。バナナフィッシュは何の暗喩なのか? シーモアはバナナフィッシュのように、二度と出られない穴に閉じ込められたような閉塞感に苛まれていたのか? だから、死ぬしかなかったのか?

 ところで、村上春樹の短編「カンガルー日和」の英語版タイトル‘A Perfect Day for Kangaroos’は、この作品の原題‘A Perfect Day for Bananafish’からとったように思ったので、「カンガルー日和」を読んでみました。
 何か共通点はあったのか? 内容的にはないと思いますが、登場人物の会話で物語が進行するスタイルは似ていると思います。

コネティカットのひょこひょこおじさん
 メアリ・ジェーンは大学時代のルームメート・エロイーズの家を訪ねます。二人は酔っ払いながら思い出話に花を咲かせますが、エロイーズにとって娘ラモーナのことが気がかりなようです。ラモーナはかなりの弱視のようで、そのためか自分だけの世界に引きこもりがちです。母娘の関係もあまりうまくいっていないようです。
 思い出話の中で、エロイーズは彼女が転んで足首をくじいたときに、その当時つきあっていたウォルト(この作品では言及されていませんが、彼はグラース家の3男にあたります。)から「かわいそうなひょこひょこおじさん」(訳注によると、〈ひょこひょこおじさん〉とはハワード・ギャリスの連作童話の主人公の親切な年寄り兎で、リューマチの脚を嘆いています。)と言われたことを話します。ウォルトは第二次世界大戦で戦死しましたが、彼女は彼のユーモアと思いやりを懐かしんでいるようです。
 物語のラスト部分、エロイーズはラモーナの部屋に行き、娘の眼鏡を両手で握りしめて固く頬に押し当てます。すると涙があふれ出て、眼鏡のレンズを濡らします。その時、彼女は「かわいそうなひょこひょこおじさん」と、何度も何度も繰り返します。
 この作品のキーワードは「かわいそうなひょこひょこおじさん」ですが、エロイーズがラモーナに対してこの言葉を使ったのは、娘へのいとおしさの表現なのでしょう。

対エスキモー戦争の前夜
 ジニーは5週連続で土曜の午前に同級生のセリーナとテニスをしています。しかし、彼女はセリーナを「学校でも最高に食えない子」と思っており、テニス帰りに利用するタクシー代をセリーナが払わないことに腹を立てています。ジニーはタクシー代の支払いを求めてセリーナの家を訪れ、セリーナが母親とお金の相談をしている間、彼女はセリーナの兄やその友人と話をします。すると彼女は変心し、セリーナに「お金は要らない」「今夜、遊びに来るかもしれない」と告げて帰宅します。
 ジニーの変心理由やセリーナの兄が言う対エスキモー戦争の意味はわかりませんが、おもしろい一編です。

笑い男
 1928年、私が9歳だった時、私は〈コマンチ団〉の団長が話してくれる「笑い男」の物語に夢中になります。また、団長と彼のガールフレンドとの恋の行方も気になります。団長は失恋し、それとともに「笑い男」の物語も終わりを告げます。

小舟のほとりで
 ブーブー・タンネンバウム(旧姓グラース。彼女はグラース家の長女にあたります。)は、湖の桟橋に繋いだ小舟に乗り込んでそこから離れようとしない4歳の息子に、なぜそこを離れないのか尋ねます。

エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに
 1944年4月、私はイギリスのデヴォン州で、6月に迫ったノルマンディー上陸作戦のための訓練を受けていました。デヴォン州での最後の日、私はたまたま立ち寄った教会で幼い子供たちによる合唱隊の歌を聞きます。その後、私は喫茶店で合唱隊の少女エズミと出会います。その時、彼女は私に手紙を書くことを約束します。
 1945年5月8日のヨーロッパの戦勝記念日から数週間の後、私は緑色の紙に包まれた小箱を手にします。それはエズミが私に送ったもので、私の部隊の移動とともに何度も転送されてきたものでした。

愛らしき口もと目は緑
 リーのもとに仕事上のパートナーであり、友人でもあるアーサーから電話がかかってきます。妻のジョーニーがパーティから帰ってこないが、心当たりがないかというものです。リーはエレンボーゲン夫婦と一緒じゃないかと話しますが、実はジョーニーはリーとベッドをともにしていたのです。
 リーとアーサーの電話での会話によってストーリーは展開します。いったん電話を切った後、アーサーは再度リーに電話をし、ジョーニーの帰宅を知らせます。ジョーニーはまだリーと一緒なのに。

ド・ドーミエ=スミスの青の時代

テディ
 主人公のテディは異常に発達した知能を持つ幼い少年であり、彼は学者たちの研究の対象になっています。物語はヨーロッパからアメリカに帰る客船の中で展開します。
 以下は、ラストシーンを暗示するテディの言葉です。
 たとえばこのぼくはだよ、あと五分もしたら水泳の訓練を受ける。下のプールへ下りて行ってみたら、水が入ってなかったということがあるかもしれない。今日が水替えやなんかの日に当ってたりしてね。しかしぼくは、ひょっとしたら、プールの底をのぞいて見ようとしてその縁まで歩いて行くかもしれない。そこへ妹がやって来て、僕を突き落すかもしれない。ぼくは頭の骨を割って即死ということだってあり得るだろう。

枡野浩一×杉田協士『歌 ロングロングショートソングロング』を読みました。

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今日、枡野浩一(短歌)と杉田協士(写真)による短歌集『歌 ロングロングショートソングロング』(2012.3)を読みました。
「枡野浩一、13年ぶりの短歌集」というコピーに惹かれて購入しましたが、短歌集としてだけでなく、写真集としても優れた作品だと思います。以下、全70首のうち一読していいなと思った歌を引用します。


    さようなら さよなら さらば そうならば そうしなければならないならば
    消しゴムでこすったせいで真っ黒になってしまったようなサヨナラ
    ラララララ! 遠い昔にサヨナラを言い終わらずに別れた人よ
    君はそのとても苦しい言いわけで自分自身をだませるのかい?
    立つ前に「先立つ不幸」ではなくて「先立つ不孝」なのだと学べ

    気をつけていってらっしゃい 行きよりも明るい帰路になりますように
    我々とあなたが言ったその々に私のことは含めないでね
    「がっかり」は期待しているときにだけ出てくる希望まみれの言葉
    努力とは希望を持っている人にだけゆるされたまぶしい助走
    ほめているあなたのほうがほめられている私よりえらいのかしら

    セックスを一回したら死ぬような人生ならば楽だったのに
    あやまちを消しても消しても消えてない 消せないものがあやまちだけど
    くさくさとしているときは ぐさぐさとしたくなるから くうくう寝ます
    僕は今朝とても冷たくなっていた 今はそれほどでもありません
    人生はひとつ残らず終わるので泣いているのはこちらの事情

    心から愛を信じていたなんて思いだしても夢のようです
    ただ胸を張っていきたい そのためにまだ必要なうつむきかげん
    「それ言っちゃおしまい」ならばおしまいになればいいって思う(おしまい)
    誕生日おめでとう きょうも好きでした あしたもきっと好きだと思う
    ハッピーじゃないエンドでも面白い映画みたいに よい人生を

    前例はあるんだろうか「村の上の春の樹」という題の小説
    さよならをあなたの声で聞きたくてあなたと出会う必要がある
    さようなら さようなら また会いましょう また別れたら また会いましょう

庭のジンチョウゲが咲いています。

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今日、庭のジンチョウゲを見に行ったら、いい香りがしていました。(富士フイルムX-E1で撮影)

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ジンチョウゲが咲いています。(3月21日、自宅にて)

日々の仕事と生活に忙殺され、時間があっという間に過ぎていきます。いつも先のことばかり考えて「いま」を大切にしていないような気がします。日常の出来事を出会った人やモノの写真で記録し、一日一日に異なった意味をもたせていきたいと思います。(2006年5月22日)‥‥‥と言って始めたブログですが、最近は好きな音楽や小説、日々の感想などが中心になっています。

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庭のヒメコブシが咲き始めました。

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庭のヒメコブシが咲き始めました。梅の古木も満開になっていたので、ついでにアップします。

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庭のヒメコブシが満開です。

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庭のヒメコブシが満開です。(富士フイルムX-E1で撮影)

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詩集『百葉譜』を読みました。

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先日、知人から詩集『百葉譜』をいただきました。彼の約20年ぶり3冊目の詩集で、「折々気づいたこと感じたことを植物によせて」作品にしたものだそうです。
以下、一読していいなと思った作品を3編引用しました。


    


    蛸の卵を「海藤花」と呼ぶのだと料理好きの友人
    が教えてくれた 時まさに野に山に野生の藤の花
    が咲き乱れていた

    友人はその花を目にしてふと海藤花のことを思い
    出したのかもしれない 私もいまだ見たことのな
    い蛸の卵の様子をあれこれと想像した

    海の中に棲む生き物の臓物の命名に 松の大木に
    巻きつき攀じ登り 雨に濡れながら数百の滝とな
    って咲く藤の花の姿を借りた 蛸の卵を初めて海
    藤花と呼んだ人のことを私は詳しく知らない そ
    の人が藤の花をことに好きだったのかどうかも分
    からない が花や草木に無関心ではなかったはず
    と心ひそかに思う

    蛸の卵を海藤花と呼ぶことを教わって以来 触手
    を藤の蔓のように自在に操り海の底を移動する蛸
    に藤の姿が重なる そして松の林で喘ぎつつも何
    かを捕まえようとするかのように 蔓の先端を風
    に揺らしながら這い上がる藤に蛸の姿を垣間見る



    椿――「西王母」に寄せて


    花なのに端から咲くことを望まれてないなんて他
    にどんな花があっただろう 微かな釜鳴りが満ち
    た茶室のひと隅で 一輪の纏足の花が李朝の白磁
    に支えられている

    一花三葉 どこにも自由なんてなかった だから
    最後の朝を迎える前に 誰にも見られないよう一
    直線に落花する 涙みたいにひとひらひとひら散
    るなんて真っ平後免
    散れば散ったであずかり知れぬ濡れ衣 散り様が
    打ち首を想起させると よしんば禍事につらなる
    ことがあっても どんな花でもひとたび咲けば散
    りゆくものを そこで椿は万の落英で結界を描く



    落葉樹


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    冬 葉を落とした木々はやおら自己を主張し始め
    る 銀杏は銀杏 榎は榎 そして柿は柿 遠くか
    らでもはっきりとそれとわかる

        2
    「屋敷ごとに高く聳え立つケヤキは関東独特の風
    景だよ」四国出身の恩師がふと漏らした言葉だ 
    車を走らせ 見知らぬ町や村を通過するとき 決
    まってそのひと言が頭をかすめる 入母屋造りの
    大きな家々には 確かに大きくて太いケヤキが寄
    り添うように立っている

    葉を落としたケヤキの背後に夕陽が落ちていく瞬
    間に遭遇したことがある 明るさがみるみる失せ
    ていく冬の夕空だが 夕焼けがつくるケヤキの頭
    頂部の影は透かし彫りの頭光だった 放射状に整
    然と広がる枝と さらにそれらから伸びる無限の
    細い枝 ひとつの欠けも過剰も見当たらなかった
    厳しい自然を生き抜くためには僅かな無駄も許さ
    れないということなのだろう

    ケヤキは喬木になり 材質が堅く木目も美しいこ
    とで大黒柱として使われる 伐られたのちも家の
    中心で仏像のように黙して百年 更に次の百年も
    立ち続ける

    古くは槻とも呼ばれたケヤキだが 茨城県坂東市
    沓掛の大槻はこれもケヤキかと一瞬戸惑う 根幹
    部が一部枯れてはいるが根元からすぐ二つに分か
    れた太い幹は 一本は天に向かって伸び もう一
    本は地面と平行に横に張り出している 所どころ
    に洞と大小の瘤が点在しおどろおどろしくもあっ
    て 二本の幹は「昇龍」と「臥龍」の趣を呈して
    いる

        3
    畑と畑の境界を知らせるために植えられるウツギ
    の木の冬姿も捨てがたい 作物の邪魔にならない
    よう伸びすぎた枝は伐られる だがすぐに繁茂す
    る 挿し木で容易に活着するくらいだから強くて
    辛抱強い木だ 瘤のようになった株から細くしな
    やかな枝を無数に伸ばした姿は 野におわす千手
    観音である

        4
    アメリカフウは紅葉もいいけれど 紅葉が終わっ
    た後の冬姿もいい つくば市には途方もなく長い
    その並木道がある 刈り込まれたように高さが揃
    った裸木が織りなす風景は 佐伯祐三の『リュク
    サンブールの木立』を思い出させる

        5
    女の子供が生まれたら桐の木を植える風習があっ
    た いや現在でもどこかの家庭でひっそりと風習
    は受け継がれているはずだ 娘の嫁入り道具の箪
    笥を作るときのためにと親の愛情も一緒に植えら
    れて

    冬の桐の木はどんなに遠くからでもそうだとわか
    る 枝々の先にすでに次の年の花芽をつけて寒空
    のもと春を待つ 会津出身で会津をこよなく愛し
    た版画家の齋藤清は、故郷を「さつきの会津」「柿
    の会津」「雪の会津」としてあまねく紹介している
    が 私はそれに「桐の会津」を加えたい 「さつき
    の会津」の中では渋めの紫の花をつけた桐をさり
    げなくしのばせ 「雪の会津」の中ではひっそりと
    だが分かってくれる人は分かってくれると言いた
    げに絵の片すみに登場させる

        6
    「浚う」 どれくらいこの言葉を使わないだろう 
    以前は溝浚いと称し家の前の生活排水路を住人総
    出で清掃をした がそのような共同作業も今では
    殆ど見かけない

    私の両親は百姓だった 冬期 畑仕事が少なくな
    るので木枯しが吹くのを待って 近くの里山の雑
    木林で下草を刈り 落ち葉を集めるのが日課だっ
    た 山のような量の落ち葉を家に持ち帰り堆く積
    み上げ 二、三年放置して腐葉土にするのだ 両
    親はこの一連の仕事を「山浚い」と言っていた

    詩人であり 高名な版画家でもあった飯野農夫也
    の作品に山浚いを描いたものがある 一人の農婦
    が熊手で落ち葉を掻き集め もう一人の農婦が背
    中いっぱいに柴を背負い 家に持ち帰ろうとして
    いる 二人の農婦の間には見上げるばかりの大き
    なクヌギが立っている 枝には一枚とて葉が残っ
    ていない 強い西風が通過し 秋が深まったこと
    を物語っている タイトルは『冬木立』 画家はき
    つい農作業に従事する農婦たちへの敬愛と哀惜の
    まなざしを送る だが 葉を落としたクヌギの木々
    の美しさも伝えたかったような気がする

        7
    蛍を捕まえるときの二つの手が作る形に似たポプ
    ラ その葉を落とした冬のポプラが私は好きだ 
    少女のか細くて長い指のような梢 掌に相当する
    部分は限りなく優しい丸味をおび地平線に立つ 

        8
    一編の詩によって長く記憶される詩人がいる 私
    は「楡の町」という詩によって百田宗次を記憶す
    る 札幌の街が形成されていく様子を一本の大き
    な楡の木に語らせたその詩を 大学を出たての若
    い先生が読んでくれた 詩とは何なのか今もって
    よく解らないが 詩というものを初めて意識し 
    朗々と読み上げられる詩の中の大きな楡の木と一
    体になった十歳の自分を思い起こす

    大きな木を見ると胸のすく思いがする 大きな木
    を見るとからだに力が漲ってくる 大きな木を見
    ると大きな木が最初に芽生えたころに思いをはせ
    る 大きな木を見ると自分の小ささをあらためて
    知らされる 大きな木を見るといつか自分もその
    ような木になりたいと思う
    

職場の花

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最近、ツバキの奥深さを知り、少し勉強してみようと思っています。今日、職場の庭を見たら、赤とピンクのツバキが咲いていました。見ごろは過ぎたようですが、赤いツバキを撮ってみました。ついでに、アセビ(アシビ)も咲いていたので撮りました。(ニコンのコンデジ《coolpix AW110》で撮影)

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庭のオトメツバキが咲いています。

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庭のオトメツバキが咲いています。これまでは殆ど見ることがなく、無視してきてごめんなさいって感じです。(ニコンD300で撮影)

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スーツとネクタイを買いました。

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今日、流山おおたかの森SCにある〈Brooks Brothers〉に行ってきました。
で、仕事用にフィッツジェラルド・モデルの紺色スーツを買いました。いつもの42REGだときつめになってしまったたので、44REGにサイズアップにしました。トホホ・・・。
スーツに合わせてネクタイを1本買いました。紫ベースのストライプタイです。

夏目雅子の俳句を読みました。

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夏目雅子。大好きな女優でした。
彼女は1985年9月11日、27歳という若さでこの世を去りました。
彼女の七回忌にあたる1991年9月11日、『夏目雅子写真集 星花火』が刊行されました。この本は写真集ですが、東京俳句俱楽部に所属し「海童」という俳号を持つ彼女の句集でもあります。以下、この本に収録された彼女の全句を引用します。


    水中花 何想う 水のなか

    風鈴よ 自分で揺れて 踊ってみたまえ
    雷鼓鳴り 耳ふさぐ夕餉 闇の中
    蟻ん子 手の平にのせ 我侘しむ
    ぬぐっても ぬぐっても 汗みどろ
    油照り 汗もなく立つ 忠犬ハチコウ
    オリンピック 観る人もする人も 滝の汗

    雪の芽を つけて春待つ 梅の里
    富士の山 余寒の雪の 目にしみて
    野蒜摘む 老婆の爪の ひび割れて

    折れている 月見草の花 情人(いろ)変り

    恋猫や なよやかに泣く 間夫(まぶ)の宿
    阿婆擦れた 裸娘(らっこ)の肌に 浮雲の影

    青蚊帳に いつしかとなく 落日
    夏めきし 青蚊帳の肌 なまめいて
    湯文字 乱れし 冷奴の白

    夕暮れに 芝焼き燃える 天を見つ
    ゴーゴーってる 流氷の音 床の中
    叩いても叩いても 咳(しはぶ)いて 壊(こは)れた

    寄せ鍋や 湯気かき集め 一人じめ

    セーターの 始めての赤 灯に揺れて
    臨席の 落第の娘の 肩を抱く

    結婚は 夢の続きや ひな祭り

    傾けば 冬の夜に 温
    寒空に 赤い火は 有難い
    聖夜 吉兆の星か 兆(きざし)の星か
    釈迦力に 何故第九 群れて奏でる
    屋台まで 讃美歌きこゆ 聖夜かな

    梅酒たいらげ 梅をかじって 舌つづみ
    鰺喰らふ 味も分からず 思案顔
    通り雨 そっと握った 蝉の抜け殻

    時雨てよ 足元が 歪むほどに
    あの人を 鳥引く群れが 連れて行く

    間断の 音なき空に 星花火

ようこそ!

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ハナミズキの花が咲きました。花びらのように見えるピンク色の部分は総苞(花序全体を包む葉の変形したもの)で、花はその真ん中にある塊の部分です。(4月17日、自宅にて)

日々の仕事と生活に忙殺され、時間があっという間に過ぎていきます。いつも先のことばかり考えて「いま」を大切にしていないような気がします。日常の出来事を出会った人やモノの写真で記録し、一日一日に異なった意味をもたせていきたいと思います。(2006年5月22日)‥‥‥と言って始めたブログですが、最近は好きな音楽や小説、日々の感想などが中心になっています。

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村上春樹『女のいない男たち』を買いました。

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昨日、村上春樹の9年ぶりの短編集『女のいない男たち』が発売されました。収録作品6編のうち5編は既読ですが、書き下ろしの1編を読むために買いました。

以下、この単行本の帯に書かれた作品紹介文を引用します。なお、( )内は初出誌です。
ドライブ・マイ・カー(『文藝春秋』2013年12月号)
 舞台俳優・家福は女性ドライバーみさきを雇う。死んだ妻はなぜあの男と関係しなくてはならなかったのか。彼は少しずつみさきに語り始めるのだった。
 【参考】http://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/54608668.html

イエスタデイ(『文藝春秋』2014年1月号)
 完璧な関西弁を使いこなす田園調布出身の同級生・木樽からもちかけられた、奇妙な「文化交流」とは。そして16年が過ぎた。
 【参考】http://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/54659300.html

独立器官(『文藝春秋』2014年3月号)
 友人の独身主義者・渡会医師が命の犠牲とともに初めて得たものとは何だったのか。
 【参考】http://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/54792091.html

シェエラザード(『MONKEY』vol.2 SPRING 2014)
 陸の孤島である「ハウス」に閉じ込められた羽原は、「連絡係」の女が情事のあとに語る、世にも魅力的な話に翻弄される。
 【参考】http://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/54805843.html

木野(『文藝春秋』2014年2月号)
 妻に裏切られた木野は仕事を辞め、バーを始めた。そしてある時を境に、怪しい気配が店を包むのだった。
 【参考】http://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/54715263.html

女のいない男たち(書き下ろし)
 ある夜半過ぎ、かつての恋人の夫から、悲報を告げる電話がかかってきた。
 【感想】この作品を読むためにこの本を買ったわけですが、ちょっと残念な作品でした。ただ、「エレベーター音楽」というジャンルがあることを知ったのはよかったです。よくエレベーターの中で流れているような音楽をさすそうで、例としてパーシー・フェイスやマントヴァーニ、レイモンド・ルフェーブル、ポール・モーリアなどがあげられます。

なお、単行本収録するにあたり、「ドライブ・マイ・カー」と「イエスタデイ」は雑誌掲載時とは少し内容が変更されています。この件に関し、著者による「まえがき」を引用します。
 『ドライブ・マイ・カー』は実際の地名について、地元の方から苦情が寄せられ、それを受けて別の名前に差し替えた。『イエスタデイ』については、歌詞の改作に関して著作権代理人から「示唆的要望」を受けた。僕の方にももちろんそれなりの言い分はあるけれど(歌詞は訳詞ではなく、まったく無関係な僕の創作だから)、ビートルズ・サイドとトラブルを起こすのはこちらの本意ではないので、思い切って歌詞を大幅に削り、問題が起きないようにできるだけ工夫した。どちらも小説の本質とはそれほど関係のない箇所なので、テクニカルな処理によって問題がまずは円満に解消してよかったと思っている。

筑波実験植物園のシャクナゲ

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先日つくば市の《国立科学博物館 筑波実験植物園》の前を通ったらシャクナゲがたくさん咲いていたので、今日母を連れてシャクナゲを見に行ってきました。シャクナゲの木ってこんなに大きくなるんだって初めて知りました。

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シャクナゲ「太陽」

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「ロドデンドロン・アルボレウム」。ヒマラヤの代表的シャクナゲで、ネパールの国花だそうです。

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茨城県近代美術館企画展「フランス万華鏡」を見ました。

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先週の金曜日、水戸に出張しました。出張先が茨城県近代美術館の近くだったので、空いた時間に美術館を訪ねました。「フランス万華鏡」という企画展をやっており、美術館所蔵のフランス近代絵画や、フランス美術に影響を受けた日本人作家の作品が展示されていました。特に本県出身の画家・中村彝の作品をたくさん見られてよかったと思います。

【参考】(茨城県近代美術館HPより)
 当館のコレクションよりフランスの香気ただよう作品を選び、万華鏡のように紹介します。ドーミエやクールベをはじめ、モネやルノワールなど当館所蔵のフランス近代絵画を一堂に展示する他、中村彝や辻永などフランス美術に影響を受けた茨城の作家や、藤田嗣治や長谷川潔、村山密などパリで活躍した日本人画家を紹介します。

ようこそ!

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Welcome to my photo diary


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フジの花が咲いています。3年前に根本から折れてしまいましたが、隣の木に蔓を伸ばしてかなりはびこっています。(4月29日、自宅にて)

日々の仕事と生活に忙殺され、時間があっという間に過ぎていきます。いつも先のことばかり考えて「いま」を大切にしていないような気がします。日常の出来事を出会った人やモノの写真で記録し、一日一日に異なった意味をもたせていきたいと思います。(2006年5月22日)‥‥‥と言って始めたブログですが、最近は好きな音楽や小説、日々の感想などが中心になっています。

左のINDEXか、下の「最新の画像」から中にお入りください。

ようこそ!

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Welcome to my photo diary


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庭の西洋シャクナゲが咲き始めました。(5月3日、自宅にて)

日々の仕事と生活に忙殺され、時間があっという間に過ぎていきます。いつも先のことばかり考えて「いま」を大切にしていないような気がします。日常の出来事を出会った人やモノの写真で記録し、一日一日に異なった意味をもたせていきたいと思います。(2006年5月22日)‥‥‥と言って始めたブログですが、最近は好きな音楽や小説、日々の感想などが中心になっています。

左のINDEXか、下の「最新の画像」から中にお入りください。

和田竜『村上海賊の娘』を読みました。

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今日、和田竜の『村上海賊の娘』(2013.10)を読み終えました。
和田竜の作品を読むのは『のぼうの城』(2007)、『忍びの国』(2008)、『小太郎の左腕』(2009)に続いて4作目です。彼の新作が出たら必ず読もうと思っていましたが、先日の《2014年本屋大賞》の発表まで知りませんでした。

◆映画化が待たれる作品です。この原作なら、僕の大好きな「痛快娯楽時代劇」になることは間違いありません。主人公の村上海賊の娘・景(きょう)役は杏に決定です。そして、景の父・村上武吉(たけよし)役は杏の実父・渡辺謙がいいと思います。また、村上海賊と戦う織田方の海賊・眞鍋七五三兵衛(しめのひょうえ)役は・・・・・。こんなことを考えながら、読んでいました。

◆村上海賊の娘・景は南蛮人のような容姿、つまり「高き鼻、大きく見開いた眼、長き頸と手足、小さき頭」のため、瀬戸内では「醜女」扱いされていました。さらに相当の「悍婦」(じゃじゃ馬)だったので、嫁入り先もなかなか決まらない有様でした。そんな中、南蛮人を見慣れた者の多い泉州(和泉国)に行けば、南蛮人のような容姿の彼女は「別嬪」扱いされ、嫁のもらい手もたくさんいると、泉州行きをそそのかす者がいました。・・・・・。全く「痛快娯楽時代劇」的展開です。うまく作れば、黒澤明の『七人の侍』や『隠し砦の三悪人』に匹敵するような映画にできると思います。

◆ストーリー
 「天下布武」を目指す織田信長の前に立ちはだかったのは、顕如を中心とする浄土真宗本願寺勢力(一向一揆)でした。本願寺勢力は石山本願寺に依りますが、ここでの攻防戦がいわゆる石山合戦(1570-80)です。
 信長に包囲された石山本願寺への兵糧搬入を目的として、毛利水軍・小早川水軍・村上水軍を中心とする瀬戸内の水軍戦力と、それを阻止せんとする織田方の水軍戦力が大阪湾木津川河口で激突します。これが、いわゆる「第一次木津川口の戦い」(1576)です。この作品はこの戦いへと向かう毛利方・織田方双方の動きを描き、やがて両者の激突の様子が克明に描かれていきます。

◆主な登場人物
 【村上家】
   村上景:悍婦にして醜女。嫁の貰い手がない当年20歳
   村上武吉:景の父。能島村上家の当主。村上海賊を最盛期に導いた。
   村上元吉:景の兄
   村上景親:景の弟
   村上吉継:来島村上の家の重臣筆頭
   村上吉充:因島村上家の当主
 【毛利家】
   小早川隆景:毛利元就の三男。甥にあたる現当主毛利輝元を補佐
   乃美宗勝:小早川隆景の重臣。警固衆(けごしゅう、水軍)の古強者
   児玉就英:毛利家直属の警固衆の長
 【織田方】
   眞鍋七五三兵衛:石山本願寺を攻める眞鍋海賊の若き当主。剛強無双の巨漢、怪物。
   眞鍋道夢斎:七五三兵衛の父
   沼間義清(よしはる):泉州を束ねる触頭任世(ただよ)の息子
   松浦安太夫:泉州の触頭。「悪たれ兄弟」の弟
   寺田又右衛門:「悪たれ兄弟」の兄
 【大坂本願寺】
   顕如:浄土宗本願寺派第11世門主
   下間頼龍:顕如の側近
   鈴木孫市:鉄砲傭兵集団・雑賀党の首領

【参考】
能島村上氏(愛媛県今治市・村上水軍博物館HPより)
 村上氏は、南北朝から戦国時代にかけて瀬戸内海で活躍した一族である。俗に三島村上氏と呼ばれる、能島・来島・因島の三家からなり、互いに強い同族意識を持っていた。
 戦国時代になると、村上氏は、その強力な海の武力を背景に、瀬戸内海の広い地域を支配し、国内の軍事・政治や海運の動向をも左右した。この後、来島城を本拠とする来島村上氏は早くから守護大名河野氏と結びつき、因島村上氏は大内氏のち毛利氏の有力な水軍となった。そして、現在の宮窪に本拠を構えた能島村上氏は3氏の中でもっとも独立性が高く、村上武吉は、どの大名にも臣従せず、独自の姿勢を貫いた。
 武吉の時代に全盛を謳歌する能島村上氏は、西は九州から東は塩飽諸島に至る海上交通を掌握していた。戦時には、小早船を巧みに操り、火薬を用いた戦闘を得意とした。その一方で、平時には瀬戸内海の水先案内、海上警固、海上運輸など、海の安全や交易・流通を担う重要な役割も果たしたのである。
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