今日、河野裕子・永田和宏『たとへば君 四十年の恋歌』を読み終えました。
この本について、川本三郎氏の「解説」から引用します。
この本について、川本三郎氏の「解説」から引用します。
河野裕子さんと永田和宏さんという二人の現代の秀れた歌人は、学生時代に京都で出会い、惹かれ合い、結婚した。二人の子供に恵まれ、家庭を作り、それぞれに歌人としての道を深めていった。
そして、妻の河野裕子さんは2000年に乳癌が見つかり、一時は小康を得たが、2008年に再発し、二年後に他界した。64歳だった。
本書は、お二人の短歌と、河野さんの折り折りの随筆で編まれた、ひとつの夫婦の記録である。二人は日本のどこにでもいる良き夫婦であると同時に、夫と妻の両方が歌を詠むという特別な夫婦でもある。
そして、妻の河野裕子さんは2000年に乳癌が見つかり、一時は小康を得たが、2008年に再発し、二年後に他界した。64歳だった。
本書は、お二人の短歌と、河野さんの折り折りの随筆で編まれた、ひとつの夫婦の記録である。二人は日本のどこにでもいる良き夫婦であると同時に、夫と妻の両方が歌を詠むという特別な夫婦でもある。
以下、一読して気になった歌を引用します。
【第一章 はじめて聴きし日の君が地のおと 出会いから結婚、出産まで】
◆河野
たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか
くすの木の皮はがしつつ君を待つこの羞(やさ)しさも過ぎて思はむ
わが頬を打ちたるのちにわらわらと泣きたきごとき表情をせり
「ゆたゆたと血のあふれてる冥い海ね」くちづけのあと母胎のこと語れり
寝ぐせつきしあなたの髪を風が吹くいちめんにあかるい街をゆくとき
夕闇の桜花の記憶と重なりてはじめて聴きし日の君が血のおと
息あらく寄り来しときの瞳(め)の中の火矢のごときを見てしまひたり
ブラウスの中まで明かるき初夏の日にけぶれるごときわが乳房あり
おほよその君の範囲を知りしこと安しとも寂しとも冬林檎むく
今刈りし朝草のやうな匂ひして寄り来しときに乳房とがりゐき
言ひかけて開きし唇の濡れをれば今しばしわれを娶らずにゐよ
汝が胸の寂しき影のそのあたりきりん草の影かはみ出してゐる
しんしんとひとすぢ続く蝉のこゑ産みたる後の薄明に聴こゆ
まがなしくいのち二つとなりし身を泉のごとき夜の湯に浸す
子とわれのみの知る胎動の外にして父なる汝れのすでに寂しく
◆永田
海蛇座南にながきゆうぐれをさびしきことは言わずわかれき
楡の樹に楡の悲哀よ きみのうちに溶けてゆけない血を思うとき
あなた・海・くちづけ・海ね うつくしきことばに逢えり夜の踊り場
あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年
重心を失えるものうつくしく崩おれてきぬその海の髪
動こうとしないおまえのずぶ濡れの髪ずぶ濡れの肩 いじっぱり!
ひとひらのレモンをきみは とおい昼の花火のようにまわしていたが
きまぐれに抱きあげてみる きみに棲む炎の重さを測るかたちに
おもむろにひとは髪よりくずおれぬ 水のごときはわが胸のなかに
【第二章 たったこれだけの家族 若き日の父として母として】
◆河野
君は今小さき水たまりをまたぎしかわが磨く匙のふと暗みたり
夕暗む部屋にしづかにシヤツ脱ぎて若きキリンのやうな背をせり
子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き湯に入り子を抱き眠る
妻子なく職なき若き日のごとく未だしなしなと傷みやすく居る
でまかせの嘘のついでに言ひしことまさしく君を撃ち貫きぬ
とかげのやうに灼けつく壁に貼りつきてふるへてをりぬひとを憎みて
男憎し苦(にが)し憎けれどさしあたりざんぶ熱き湯に耳まで浸る
ほしいまま雨に打たせし髪匂ふ誰のものにもあらざり今は
つきつめて思へば誰か分らざるあなたに夜毎の戸を開けて待つ
羞(やさ)しさや 君が視界の中に居て身震ふほどに君が唇欲し
かの初夏の疎林で嗅ぎし体臭を何のはずみにかまとひて君は
昨夜(よべ)われを領しゐし手がしらかみにかくも無造作に垂線おおろす
憎しみに火脹れてゐる夜ぞ迷ひ来し蟻のひとつもわれに触るるな
昨夜(きぞのよ)の汝がためらひは何故ぞそのおほき手が椅子の背に垂る
現代版書生気質の伴侶かな長身長髪黒シャツGパン
逆上してこゑをあぐれどこの家はつらら垂る家誰もひそひそ
君に凭りバスに揺られて眠りつつ覚めてゐしなり二十歳の頃は
ことば、否こゑのたゆたひ 惑ひゐる君がこころをわれは味はふ
たつたこれだけの家族であるよ子を二人あひだにおきて山道のぼる
◆永田
酔うためにのみ飲むごとき夜幾夜、子あり妻ありゆきずりのごと
寝息かすか――妻には妻の夜がありて告げねば知るはずもなきさびしさは
〈差し向かいの寂寥(ツワイ・ザアムカイト〉さもあらばあれ透明の花器に夕日が静かに充つる
諍(いさか)いの部屋を抜け来し昼ふかく鳥は目蓋を横に閉ざせり
人を抱くこともなければリゾールの眠るときまでかすかに匂う
なにげなきことばなりしがよみがえりあかつき暗き吃水を越ゆ
わが肩にもたれ眠りし汝が髪に海のものなる塩は乾きいつ
逆上の刹那美しき表情に夕映えは来て汝はわがもの
土壇場で論理さらりと脱ぎ捨てて女たのしもほろほろと笑む
あきらめて得(う)る平安と人は言えど、われも思えど、樹々を揉む風
背後より触るればあわれてのひらの大きさに乳房は創られたりき
憎しみは妻に発して子におよぶ子なれば妻なればその夫なれば
【第三章 良妻であること何で悪かろか アメリカ、みどりの家の窓から】
◆河野
なぐられて戻り来し子は黙しをり父には言はむ問はずに置かむ
かんしやくが夢の中でも爆発し亭主を蹴りし勢ひに覚む
ぽぽぽぽと秋の雲浮き子供らはどこか遠くへ遊びに行けり
文献を握りしままに眠りゐるこの人はもう六十のやうに疲れて
しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ
共に棲みまだ七、八十年はあるやうな君との時間ゆつくり過ぎよ
眠くて眠くて眠い疲れのこのひとが眠れる今も疲れゐるなり
おほきな月浮かび出でたり六畳に睡りて君ゐるそれのみで足る
【第四章 あと何万日残っているだろう 多忙な日常の中で】
◆河野
てのひらに載るほど遠景の夫(つま)子らを紅梅の木ごと掬はむとせり
自意識に苦しみゐし頃わが歩幅考へず君は足早なりき
こぞり立つぶ厚き鶏頭に手触れたり君を知り君のみを知り一生(ひとよ)足る
七月のとある日なりき君に会ひどくだみの表紙の歌誌をもらひき
育つほどいよいよ父に似てきたるもの言はず傍へに佇つ気配まで
もうすこしあなたの傍に眠りたい、死ぬまへに螢みたいに私は言はう
耳の裏見られてゐるか いつも君は背後から来て肩ごしにものを言ふ
このひとは寿命縮めて書きてゐる私はいやなのだ灰いろの目瞼など
先に死ねばやはりこの人は困るだらう金ではなくて朝のパン夕べの飯に
この家で俺らは死ぬさと言ひながら棕櫚の徒長枝伐り始めたり
一碗には幾つぶの飯があるのだらうつぶりつぶりと嚙みながら泣く
じやがいもを買ひにゆかねばと買ひに出る この必然が男には分からぬ
厨にはいつも私しか居らぬゆゑ米櫃(こめびつ)に凭れてごはんを食べる
疲れたるあなたの横でパンを食ふ感染(うつ)らないやうにぐんぐん食べる
晩年におそらくは居ない君のこと既視感(デジヤビユ)のごとく復習(さらつ)ておかねば
いつぱいに蛇口をあけて水勢つよき柱をぞ作る君の居ぬ夜は
長くてもあと三十年しか無いよ、ああ、と君は応ふ椋の木の下
君の場合ブレーキのかけ方がよかりしと真顔で思ふ 朝鵙(あさもず)のこゑ
灯ともさぬ階段に腰かけ待ちてをり今日は君だけが帰りくる家
◆永田
たった一度のこの世の家族寄りあいて雨の廂(ひさし)に雨を見ており
君が歩幅を考えず歩きいたる頃せっぱつまりしように恋いいし
あのころは歩き疲れるまで歩き崩れるようにともに睡りき
とげとげともの言う妻よ疲れやすくわれは向日葵の畑に来たり
用のなき電話は君の鬱のとき雨の夜更けをもう帰るべし
母を知らぬわれにあるとう致命的欠陥を君はあげつらうばかり
日に幾度笑いて笑いとまらざる妻と呼び慣らわしているこの女
吾と猫に声音(こわね)自在に使いわけ今宵いくばく猫にやさしき
木の名草の名なべては汝に教わりき冬陽明るき榛(はん)の木林
不機嫌の妻の理由のわからねば子と犬と連れて裏口を出づ
食えと言い、寝よと急かせてこの日頃妻元気なり吾をよく叱る
子らの居ぬ日曜なれば君が誘い我はしたがう ふくろうとして
君がいつか死ぬとうことを思わざりき思わずきたり黄あやめのはな
風邪熱にはかなく妻が立ち居する雪にまぶしき朝の厨房
つまらなそうに小さき石を蹴りながら橋を渡りてくる妻が見ゆ
性愛をめぐりさびしく諍(いさか)えり窓には夜の沼ひろがれる
あきらめて優しくわれはあるものをやさしくあれば人はやすらう
小(ち)さき耳に小(ちい)さき穴をあけきたる妻はかなしも厨に立てば
扉(ドア)の向こうが海だとでもいうように君はもたれおり昔も今も
家族の犠牲になっているという不満妻にありて薬湯(やくとう)のさみどりに首まで浸る
雨の日に電話かけくるな雨の日の電話は焚火のようにさびしい
あるいは泣いているのかもしれぬ向こうむきにいつまでも鍋を洗いつづけて
蒸留水と息子がわれを批判せしとうれしそうなり妻の口ぶり
意地のごとく息子とわれを比較する妻のこの頃好きとは言えぬ
君のおかげでおもしろい人生だったとたぶん言うだろうわたくしがもし先に死ぬことになれば
ふたりよりやがてふたりにもどるまでの時の短かさそののちの長さ
【第五章 わたしよりわたしの乳房をかなしみて 発病】
◆河野
あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて
過労鬱のとばつちりなれど寂しさよ俺の広辞苑を使ふなと怒鳴る
何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない
わたしよりわたしの乳房をかなしみてかなしみゐる人が二階を歩く
君のこゑ聞けどふらふらと海月(くらげ)なり陽あたる遠浅をゆき戻りして
ああ寒いわたしの左側に居てほしい暖かな体、もたれるために
沈潜しろ仕事断はれと言ひくるる帰りて風呂の湯替へつつ君は
わが病めば醤油と味醂の割合のわからぬ君が青魚(あをいを)を煮る
行こ行こと誘へば行く行くとわれは言ふ龍神温泉遠くもあるか
ちよつとだけ私にくれていい筈の時間があらぬ君が日程表
猫好きで一生(ひとよ)を通し死ぬときはつれあひよりも猫が心配
一寸ごとに夕闇濃くなる九月末、寂しさは今始まつたことぢやない
死ぬときは息子だけが居てほしい 手も握らぬよ彼なら泣かぬ
今ならばまつすぐに言ふ夫ならば庇つて欲しかつた医学書閉ぢて
やつとこさ正気の今日の綱渡り早寝をするよ誰からも逃げ
薬害に正気を無くししわれの傍に白湯つぎくれる家族が居りき
このひとをあんなに傷つけてしまつた日どの錠剤も白かつたのだけど
椿咲く家にあなたは帰りきて頬を腫らししわれを哀れむ
終点まで乗りてゆかうと君が言ふああいいよ他に誰も居ない
わたしらはもののはづみに出会(でお)うたよあんなに黄色い待宵の花
鈍感なわたしだつたよひたひたとあなたのこゑを書きつけておく
兄のやうな父親のやうな夫がゐて時どき頭を撫でてくれるよ
笑窪がかはいいと言はれてよろこぶ私に私より単純に夫がよろこぶ
栓抜きがうまく使へずあなたあなたと一人しか居ない家族を呼べり
このひとはだんだん子供のやうになるパンツ一枚で西瓜食ひゐる
この五年一日一日を生き延びし思ひに過ぎきあなたの傍に
よき妻であつたと思ふ扇風機の風量弱の風に髪揺れ
をんなの人に生まれて来たことは良かつたよ子供やあなたにミルク温める
病むまへの身体が欲しい 雨あがりの土の匂ひしてゐた女のからだ
粋(いき)がつて傘もささずに歩いてた若かつたあなた、私は追ひかけて
後(のち)の日々再発虞(おそ)れてありし日々合歓(ねむ)が咲くのも知らずに過ぎた
ごはんを炊く 誰かのために死ぬ日までごはんを炊けるわたしでゐたい
◆永田
「私が死んだらあなたは風呂で溺死する」そうだろうきっと酒に溺れて
妻おらぬ夜はやさしく電話して娘に食事の用意を頼む
癌と腫瘍の違いからまず説明すなにも隠さず楽観もせず
大泣きに泣きたるあとにまだ泣きて泣きつつ包丁を研ぎいたるかな
あなたにはわからないと言う切り捨てるように切り札のJ(ジヤツク)のように
ポケットに手を引き入れて歩みいつ嫌なのだ君が先に死ぬなど
昔から手のつけようのないわがままは君がいちばん寂しかったとき
白まばら紅(くれない)まばらの梅林(ばいりん)にふたりの時の短きを言う
ささくれて尖ってそして寂しくて早く寝にけり今宵の妻は
平然と振る舞うほかはあらざるをその平然をひとは悲しむ
薯蕷(とろろ)蕎麦啜りつつ言うことならねどもあなたと遭っておもしろかった
がんばっていたねなんて不意に言うからたまごごはんに落ちているなみだ
なんにしても許すことをまず覚えよとエノコロの穂をしごいて歩く
花は野の花を選びて買いもどるこの頃鬱がちの汝が誕生日
われのひと世にもっとも聡明にありたしと願いし日々を君は責むるも
かたくなに同情とうを拒みつづけかろうじてわれはわれを支えこし
あそこにも、ああ、あそこにもとゆびさして山の桜の残れるを言う
不意に泣き、顔裏返すように泣く ひとりの前にたじたじとわれは
君が今夜のはしゃぎすぎいるさびしさに取り残されて不機嫌なりわれは
この数日の君を案じて駆けつけし二人子に母は君ひとりなり
待ち続け待ちくたびれて病みたりと悲しきことばはまっすぐに来る
最後まで決してきみをはなれない早くおねむり 薬の効くうちに
ほつりほつりと茶の花咲ける石垣にあ、雪虫と言いて振り向く
馬鹿ばなし向うの角まで続けようか君が笑っていたいと言うなら
不機嫌がすぐ表情にあらわれるそこが青いと妻は批判す
放っておいてくれればよほど楽なのに心配し心配しまた君が病む
【第六章 君の妻として死ぬ 再発】
◆河野
一日に何度も笑ふ笑ひ声と笑ひ顔を君に残すため
まぎれなく転移箇所は三つありいよいよ来ましたかと主治医に言へり
大泣きをしてゐるところへ帰りきてあなたは黙つて背を撫でくるる
わたしより不安な不安な君なれど苦しむ体はわたしの体
俺よりも先に死ぬなと言ひながら疲れて眠れり靴下はいたまま
乗り継ぎの電車待つ間の時間ほどのこの世の時間にゆき会ひし君
生きてゆくとことんまでを生き抜いてそれから先は君に任せる
見苦しくなりゆくわたしの傍に居てあなたで良かつたと君ならば言ふ
歌人として死にゆくよりもこの子らの母親であり君の妻として死ぬ
死ぬな 男の友に言ふやうにあなたが言へり白いほうせん花(くわ)
わたしには七十代の日はあらず在(あ)らぬ日を生きる君を悲しむ
このひとの寝相の悪きは子供のやう一回ころがして布団かけやる
死に際に居てくるるとは限らざり庭に出て落ち葉焚きゐる君は
若狭へと君は行きたり元気ならば共に行きしを花背峠越えて
大暑すぎし暑さの中を起ちゆけりわたしの頭を二三度なでて
わが知らぬさびしさの日々を生きゆかむ君を思へどなぐさめがたし
死なないでとわが膝に来てきみは泣くきみがその頸子供のやうに
今日夫は三度泣きたり死なないでと三度(みたび)泣き死なないでと言ひて学校へ行けり
長生きして欲しいと誰彼数へつつつひにはあなたひとりを数ふ
◆永田
一日が過ぎれば一日減つてゆく君との時間 もうすぐ夏至だ
言つて欲しい言葉はわかつてゐるけれど言へば溺れてしまふだらうきみは
あの午後の椅子は静かに泣いてゐた あなたであつたかわたしであつたか
あつと言ふ間に過ぎた時間と人は言ふそれより短いこれからの時間
カモミール淹れようかと言ふ 存在のはかなき午後の陽の翳る庭
きみがゐてわれがまだゐる大切なこの世の時間に降る夏の雨
遠浅にひとり浮き身をするやうなさびしさはもう嫌なのだ人よ
点滴を受けつつ眠りゐる人の眠りの午後に雨やはらかし
この桜あの日の桜どれもどれもきみと見しなり今日とのさくら
声だけはいつも元気で電話切るまでのことなりわれだけが知る
あと五年あればとふきみのつぶやきに相槌を打ち打ち消して、打つ
原稿はもう引き受けないと約束すきみとの時間わづかな時間
副作用はもとより承知しかれどももう止めようと言へなどしない
ともに過ごす時間いくばくさはされどわが晩年にきみはあらずも
コスモスを踏まないでとまた声が飛ぶ背に聞く声は昔の声だ
歌は遺り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る
【終章 絶筆】
◆河野
あなたらの気持がこんなにわかるのに言ひ残すことの何ぞ少なき
さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ
八月に私は死ぬのか朝夕のわかちもわかぬ蝉の声降る
手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が
◆永田
あほやなあと笑ひのけぞりまた笑ふあなたの椅子にあなたがゐない
亡き妻などとどうして言へようてのひらが覚えてゐるよきみのてのひら
呑まうかと言へば応ふる人がゐて二人だけとふ時間があつた
【第一章 はじめて聴きし日の君が地のおと 出会いから結婚、出産まで】
◆河野
たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか
くすの木の皮はがしつつ君を待つこの羞(やさ)しさも過ぎて思はむ
わが頬を打ちたるのちにわらわらと泣きたきごとき表情をせり
「ゆたゆたと血のあふれてる冥い海ね」くちづけのあと母胎のこと語れり
寝ぐせつきしあなたの髪を風が吹くいちめんにあかるい街をゆくとき
夕闇の桜花の記憶と重なりてはじめて聴きし日の君が血のおと
息あらく寄り来しときの瞳(め)の中の火矢のごときを見てしまひたり
ブラウスの中まで明かるき初夏の日にけぶれるごときわが乳房あり
おほよその君の範囲を知りしこと安しとも寂しとも冬林檎むく
今刈りし朝草のやうな匂ひして寄り来しときに乳房とがりゐき
言ひかけて開きし唇の濡れをれば今しばしわれを娶らずにゐよ
汝が胸の寂しき影のそのあたりきりん草の影かはみ出してゐる
しんしんとひとすぢ続く蝉のこゑ産みたる後の薄明に聴こゆ
まがなしくいのち二つとなりし身を泉のごとき夜の湯に浸す
子とわれのみの知る胎動の外にして父なる汝れのすでに寂しく
◆永田
海蛇座南にながきゆうぐれをさびしきことは言わずわかれき
楡の樹に楡の悲哀よ きみのうちに溶けてゆけない血を思うとき
あなた・海・くちづけ・海ね うつくしきことばに逢えり夜の踊り場
あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年
重心を失えるものうつくしく崩おれてきぬその海の髪
動こうとしないおまえのずぶ濡れの髪ずぶ濡れの肩 いじっぱり!
ひとひらのレモンをきみは とおい昼の花火のようにまわしていたが
きまぐれに抱きあげてみる きみに棲む炎の重さを測るかたちに
おもむろにひとは髪よりくずおれぬ 水のごときはわが胸のなかに
【第二章 たったこれだけの家族 若き日の父として母として】
◆河野
君は今小さき水たまりをまたぎしかわが磨く匙のふと暗みたり
夕暗む部屋にしづかにシヤツ脱ぎて若きキリンのやうな背をせり
子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き湯に入り子を抱き眠る
妻子なく職なき若き日のごとく未だしなしなと傷みやすく居る
でまかせの嘘のついでに言ひしことまさしく君を撃ち貫きぬ
とかげのやうに灼けつく壁に貼りつきてふるへてをりぬひとを憎みて
男憎し苦(にが)し憎けれどさしあたりざんぶ熱き湯に耳まで浸る
ほしいまま雨に打たせし髪匂ふ誰のものにもあらざり今は
つきつめて思へば誰か分らざるあなたに夜毎の戸を開けて待つ
羞(やさ)しさや 君が視界の中に居て身震ふほどに君が唇欲し
かの初夏の疎林で嗅ぎし体臭を何のはずみにかまとひて君は
昨夜(よべ)われを領しゐし手がしらかみにかくも無造作に垂線おおろす
憎しみに火脹れてゐる夜ぞ迷ひ来し蟻のひとつもわれに触るるな
昨夜(きぞのよ)の汝がためらひは何故ぞそのおほき手が椅子の背に垂る
現代版書生気質の伴侶かな長身長髪黒シャツGパン
逆上してこゑをあぐれどこの家はつらら垂る家誰もひそひそ
君に凭りバスに揺られて眠りつつ覚めてゐしなり二十歳の頃は
ことば、否こゑのたゆたひ 惑ひゐる君がこころをわれは味はふ
たつたこれだけの家族であるよ子を二人あひだにおきて山道のぼる
◆永田
酔うためにのみ飲むごとき夜幾夜、子あり妻ありゆきずりのごと
寝息かすか――妻には妻の夜がありて告げねば知るはずもなきさびしさは
〈差し向かいの寂寥(ツワイ・ザアムカイト〉さもあらばあれ透明の花器に夕日が静かに充つる
諍(いさか)いの部屋を抜け来し昼ふかく鳥は目蓋を横に閉ざせり
人を抱くこともなければリゾールの眠るときまでかすかに匂う
なにげなきことばなりしがよみがえりあかつき暗き吃水を越ゆ
わが肩にもたれ眠りし汝が髪に海のものなる塩は乾きいつ
逆上の刹那美しき表情に夕映えは来て汝はわがもの
土壇場で論理さらりと脱ぎ捨てて女たのしもほろほろと笑む
あきらめて得(う)る平安と人は言えど、われも思えど、樹々を揉む風
背後より触るればあわれてのひらの大きさに乳房は創られたりき
憎しみは妻に発して子におよぶ子なれば妻なればその夫なれば
【第三章 良妻であること何で悪かろか アメリカ、みどりの家の窓から】
◆河野
なぐられて戻り来し子は黙しをり父には言はむ問はずに置かむ
かんしやくが夢の中でも爆発し亭主を蹴りし勢ひに覚む
ぽぽぽぽと秋の雲浮き子供らはどこか遠くへ遊びに行けり
文献を握りしままに眠りゐるこの人はもう六十のやうに疲れて
しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ
共に棲みまだ七、八十年はあるやうな君との時間ゆつくり過ぎよ
眠くて眠くて眠い疲れのこのひとが眠れる今も疲れゐるなり
おほきな月浮かび出でたり六畳に睡りて君ゐるそれのみで足る
【第四章 あと何万日残っているだろう 多忙な日常の中で】
◆河野
てのひらに載るほど遠景の夫(つま)子らを紅梅の木ごと掬はむとせり
自意識に苦しみゐし頃わが歩幅考へず君は足早なりき
こぞり立つぶ厚き鶏頭に手触れたり君を知り君のみを知り一生(ひとよ)足る
七月のとある日なりき君に会ひどくだみの表紙の歌誌をもらひき
育つほどいよいよ父に似てきたるもの言はず傍へに佇つ気配まで
もうすこしあなたの傍に眠りたい、死ぬまへに螢みたいに私は言はう
耳の裏見られてゐるか いつも君は背後から来て肩ごしにものを言ふ
このひとは寿命縮めて書きてゐる私はいやなのだ灰いろの目瞼など
先に死ねばやはりこの人は困るだらう金ではなくて朝のパン夕べの飯に
この家で俺らは死ぬさと言ひながら棕櫚の徒長枝伐り始めたり
一碗には幾つぶの飯があるのだらうつぶりつぶりと嚙みながら泣く
じやがいもを買ひにゆかねばと買ひに出る この必然が男には分からぬ
厨にはいつも私しか居らぬゆゑ米櫃(こめびつ)に凭れてごはんを食べる
疲れたるあなたの横でパンを食ふ感染(うつ)らないやうにぐんぐん食べる
晩年におそらくは居ない君のこと既視感(デジヤビユ)のごとく復習(さらつ)ておかねば
いつぱいに蛇口をあけて水勢つよき柱をぞ作る君の居ぬ夜は
長くてもあと三十年しか無いよ、ああ、と君は応ふ椋の木の下
君の場合ブレーキのかけ方がよかりしと真顔で思ふ 朝鵙(あさもず)のこゑ
灯ともさぬ階段に腰かけ待ちてをり今日は君だけが帰りくる家
◆永田
たった一度のこの世の家族寄りあいて雨の廂(ひさし)に雨を見ており
君が歩幅を考えず歩きいたる頃せっぱつまりしように恋いいし
あのころは歩き疲れるまで歩き崩れるようにともに睡りき
とげとげともの言う妻よ疲れやすくわれは向日葵の畑に来たり
用のなき電話は君の鬱のとき雨の夜更けをもう帰るべし
母を知らぬわれにあるとう致命的欠陥を君はあげつらうばかり
日に幾度笑いて笑いとまらざる妻と呼び慣らわしているこの女
吾と猫に声音(こわね)自在に使いわけ今宵いくばく猫にやさしき
木の名草の名なべては汝に教わりき冬陽明るき榛(はん)の木林
不機嫌の妻の理由のわからねば子と犬と連れて裏口を出づ
食えと言い、寝よと急かせてこの日頃妻元気なり吾をよく叱る
子らの居ぬ日曜なれば君が誘い我はしたがう ふくろうとして
君がいつか死ぬとうことを思わざりき思わずきたり黄あやめのはな
風邪熱にはかなく妻が立ち居する雪にまぶしき朝の厨房
つまらなそうに小さき石を蹴りながら橋を渡りてくる妻が見ゆ
性愛をめぐりさびしく諍(いさか)えり窓には夜の沼ひろがれる
あきらめて優しくわれはあるものをやさしくあれば人はやすらう
小(ち)さき耳に小(ちい)さき穴をあけきたる妻はかなしも厨に立てば
扉(ドア)の向こうが海だとでもいうように君はもたれおり昔も今も
家族の犠牲になっているという不満妻にありて薬湯(やくとう)のさみどりに首まで浸る
雨の日に電話かけくるな雨の日の電話は焚火のようにさびしい
あるいは泣いているのかもしれぬ向こうむきにいつまでも鍋を洗いつづけて
蒸留水と息子がわれを批判せしとうれしそうなり妻の口ぶり
意地のごとく息子とわれを比較する妻のこの頃好きとは言えぬ
君のおかげでおもしろい人生だったとたぶん言うだろうわたくしがもし先に死ぬことになれば
ふたりよりやがてふたりにもどるまでの時の短かさそののちの長さ
【第五章 わたしよりわたしの乳房をかなしみて 発病】
◆河野
あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて
過労鬱のとばつちりなれど寂しさよ俺の広辞苑を使ふなと怒鳴る
何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない
わたしよりわたしの乳房をかなしみてかなしみゐる人が二階を歩く
君のこゑ聞けどふらふらと海月(くらげ)なり陽あたる遠浅をゆき戻りして
ああ寒いわたしの左側に居てほしい暖かな体、もたれるために
沈潜しろ仕事断はれと言ひくるる帰りて風呂の湯替へつつ君は
わが病めば醤油と味醂の割合のわからぬ君が青魚(あをいを)を煮る
行こ行こと誘へば行く行くとわれは言ふ龍神温泉遠くもあるか
ちよつとだけ私にくれていい筈の時間があらぬ君が日程表
猫好きで一生(ひとよ)を通し死ぬときはつれあひよりも猫が心配
一寸ごとに夕闇濃くなる九月末、寂しさは今始まつたことぢやない
死ぬときは息子だけが居てほしい 手も握らぬよ彼なら泣かぬ
今ならばまつすぐに言ふ夫ならば庇つて欲しかつた医学書閉ぢて
やつとこさ正気の今日の綱渡り早寝をするよ誰からも逃げ
薬害に正気を無くししわれの傍に白湯つぎくれる家族が居りき
このひとをあんなに傷つけてしまつた日どの錠剤も白かつたのだけど
椿咲く家にあなたは帰りきて頬を腫らししわれを哀れむ
終点まで乗りてゆかうと君が言ふああいいよ他に誰も居ない
わたしらはもののはづみに出会(でお)うたよあんなに黄色い待宵の花
鈍感なわたしだつたよひたひたとあなたのこゑを書きつけておく
兄のやうな父親のやうな夫がゐて時どき頭を撫でてくれるよ
笑窪がかはいいと言はれてよろこぶ私に私より単純に夫がよろこぶ
栓抜きがうまく使へずあなたあなたと一人しか居ない家族を呼べり
このひとはだんだん子供のやうになるパンツ一枚で西瓜食ひゐる
この五年一日一日を生き延びし思ひに過ぎきあなたの傍に
よき妻であつたと思ふ扇風機の風量弱の風に髪揺れ
をんなの人に生まれて来たことは良かつたよ子供やあなたにミルク温める
病むまへの身体が欲しい 雨あがりの土の匂ひしてゐた女のからだ
粋(いき)がつて傘もささずに歩いてた若かつたあなた、私は追ひかけて
後(のち)の日々再発虞(おそ)れてありし日々合歓(ねむ)が咲くのも知らずに過ぎた
ごはんを炊く 誰かのために死ぬ日までごはんを炊けるわたしでゐたい
◆永田
「私が死んだらあなたは風呂で溺死する」そうだろうきっと酒に溺れて
妻おらぬ夜はやさしく電話して娘に食事の用意を頼む
癌と腫瘍の違いからまず説明すなにも隠さず楽観もせず
大泣きに泣きたるあとにまだ泣きて泣きつつ包丁を研ぎいたるかな
あなたにはわからないと言う切り捨てるように切り札のJ(ジヤツク)のように
ポケットに手を引き入れて歩みいつ嫌なのだ君が先に死ぬなど
昔から手のつけようのないわがままは君がいちばん寂しかったとき
白まばら紅(くれない)まばらの梅林(ばいりん)にふたりの時の短きを言う
ささくれて尖ってそして寂しくて早く寝にけり今宵の妻は
平然と振る舞うほかはあらざるをその平然をひとは悲しむ
薯蕷(とろろ)蕎麦啜りつつ言うことならねどもあなたと遭っておもしろかった
がんばっていたねなんて不意に言うからたまごごはんに落ちているなみだ
なんにしても許すことをまず覚えよとエノコロの穂をしごいて歩く
花は野の花を選びて買いもどるこの頃鬱がちの汝が誕生日
われのひと世にもっとも聡明にありたしと願いし日々を君は責むるも
かたくなに同情とうを拒みつづけかろうじてわれはわれを支えこし
あそこにも、ああ、あそこにもとゆびさして山の桜の残れるを言う
不意に泣き、顔裏返すように泣く ひとりの前にたじたじとわれは
君が今夜のはしゃぎすぎいるさびしさに取り残されて不機嫌なりわれは
この数日の君を案じて駆けつけし二人子に母は君ひとりなり
待ち続け待ちくたびれて病みたりと悲しきことばはまっすぐに来る
最後まで決してきみをはなれない早くおねむり 薬の効くうちに
ほつりほつりと茶の花咲ける石垣にあ、雪虫と言いて振り向く
馬鹿ばなし向うの角まで続けようか君が笑っていたいと言うなら
不機嫌がすぐ表情にあらわれるそこが青いと妻は批判す
放っておいてくれればよほど楽なのに心配し心配しまた君が病む
【第六章 君の妻として死ぬ 再発】
◆河野
一日に何度も笑ふ笑ひ声と笑ひ顔を君に残すため
まぎれなく転移箇所は三つありいよいよ来ましたかと主治医に言へり
大泣きをしてゐるところへ帰りきてあなたは黙つて背を撫でくるる
わたしより不安な不安な君なれど苦しむ体はわたしの体
俺よりも先に死ぬなと言ひながら疲れて眠れり靴下はいたまま
乗り継ぎの電車待つ間の時間ほどのこの世の時間にゆき会ひし君
生きてゆくとことんまでを生き抜いてそれから先は君に任せる
見苦しくなりゆくわたしの傍に居てあなたで良かつたと君ならば言ふ
歌人として死にゆくよりもこの子らの母親であり君の妻として死ぬ
死ぬな 男の友に言ふやうにあなたが言へり白いほうせん花(くわ)
わたしには七十代の日はあらず在(あ)らぬ日を生きる君を悲しむ
このひとの寝相の悪きは子供のやう一回ころがして布団かけやる
死に際に居てくるるとは限らざり庭に出て落ち葉焚きゐる君は
若狭へと君は行きたり元気ならば共に行きしを花背峠越えて
大暑すぎし暑さの中を起ちゆけりわたしの頭を二三度なでて
わが知らぬさびしさの日々を生きゆかむ君を思へどなぐさめがたし
死なないでとわが膝に来てきみは泣くきみがその頸子供のやうに
今日夫は三度泣きたり死なないでと三度(みたび)泣き死なないでと言ひて学校へ行けり
長生きして欲しいと誰彼数へつつつひにはあなたひとりを数ふ
◆永田
一日が過ぎれば一日減つてゆく君との時間 もうすぐ夏至だ
言つて欲しい言葉はわかつてゐるけれど言へば溺れてしまふだらうきみは
あの午後の椅子は静かに泣いてゐた あなたであつたかわたしであつたか
あつと言ふ間に過ぎた時間と人は言ふそれより短いこれからの時間
カモミール淹れようかと言ふ 存在のはかなき午後の陽の翳る庭
きみがゐてわれがまだゐる大切なこの世の時間に降る夏の雨
遠浅にひとり浮き身をするやうなさびしさはもう嫌なのだ人よ
点滴を受けつつ眠りゐる人の眠りの午後に雨やはらかし
この桜あの日の桜どれもどれもきみと見しなり今日とのさくら
声だけはいつも元気で電話切るまでのことなりわれだけが知る
あと五年あればとふきみのつぶやきに相槌を打ち打ち消して、打つ
原稿はもう引き受けないと約束すきみとの時間わづかな時間
副作用はもとより承知しかれどももう止めようと言へなどしない
ともに過ごす時間いくばくさはされどわが晩年にきみはあらずも
コスモスを踏まないでとまた声が飛ぶ背に聞く声は昔の声だ
歌は遺り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る
【終章 絶筆】
◆河野
あなたらの気持がこんなにわかるのに言ひ残すことの何ぞ少なき
さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ
八月に私は死ぬのか朝夕のわかちもわかぬ蝉の声降る
手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が
◆永田
あほやなあと笑ひのけぞりまた笑ふあなたの椅子にあなたがゐない
亡き妻などとどうして言へようてのひらが覚えてゐるよきみのてのひら
呑まうかと言へば応ふる人がゐて二人だけとふ時間があつた