今日、芥川龍之介の短編小説集『羅生門・鼻』(新潮文庫)を読み終えました。
これまで彼の作品は「蜘蛛の糸」や「鼻」、「杜子春」などを中学校か高校の授業で読んだ程度でした。この短編集を読み、こんなに優れた作家の作品を読まなかったなんて、自分にキック! という後悔と、これから彼の作品をたくさん楽しめるという期待感が高まりました。
なお、この短編集には彼の「王朝物」といわれる、平安時代に材料を得た歴史小説が8編収録されています。
これまで彼の作品は「蜘蛛の糸」や「鼻」、「杜子春」などを中学校か高校の授業で読んだ程度でした。この短編集を読み、こんなに優れた作家の作品を読まなかったなんて、自分にキック! という後悔と、これから彼の作品をたくさん楽しめるという期待感が高まりました。
なお、この短編集には彼の「王朝物」といわれる、平安時代に材料を得た歴史小説が8編収録されています。
【収録作品】( )内は発表年時と発表機関
◆羅生門(大正4年11月、『帝国文学』)
主人に暇を出され、行き所がなくて、羅生門の下で雨宿りをしている下人がいます。彼はこのままでは飢え死にしてしまうし、いっそのこと盗人になるより仕方がないと考えていますが、なかなか決心がつきません。彼は羅生門の楼上で一人の老婆を目にします。そして、彼は老婆の言葉に意を決します。
◆羅生門(大正4年11月、『帝国文学』)
主人に暇を出され、行き所がなくて、羅生門の下で雨宿りをしている下人がいます。彼はこのままでは飢え死にしてしまうし、いっそのこと盗人になるより仕方がないと考えていますが、なかなか決心がつきません。彼は羅生門の楼上で一人の老婆を目にします。そして、彼は老婆の言葉に意を決します。
◆鼻(大正5年2月、『新思潮』)
内供は人々の露骨な笑いに苦悶します。その人がその不幸をどうにかして切り抜けることが出来ると、今度は何となく物足りないような心もちになる、いわゆる「傍観者の利己主義」にも気づき、日ごとに不機嫌になってゆきます。ところがある朝、元の長い鼻に戻ります。内供は「こうなれば、もう誰も哂(わら)うものはないにちがいない。」と心の中で囁きます。
でも、彼への嘲笑は止むことはないでしょう。人々は内供が鼻のために苦しんでいることを確信してしまったから、そのことを笑っているのであって、鼻の長短を笑っているのではないのです。
禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はいない。長さは五六寸あって、上唇の上から顋(あご)の下まで下っている。形は元も先も同じように太い。云わば、細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下がっているのである。冒頭の一節です。禅智内供はこの鼻ゆえに自尊心を傷つけられ苦しんできましたが、鼻のために苦しんでいるなどと思われるのがいやで、鼻のことなど気にかけていない風を装ってきました。ある時、弟子のすすめで鼻を短くする方法を試し、鼻を短くすることができました。するとどうでしょう、人々は彼の短くなった鼻を見て、これまで以上にあからさまに嘲笑するではありませんか。
内供は人々の露骨な笑いに苦悶します。その人がその不幸をどうにかして切り抜けることが出来ると、今度は何となく物足りないような心もちになる、いわゆる「傍観者の利己主義」にも気づき、日ごとに不機嫌になってゆきます。ところがある朝、元の長い鼻に戻ります。内供は「こうなれば、もう誰も哂(わら)うものはないにちがいない。」と心の中で囁きます。
でも、彼への嘲笑は止むことはないでしょう。人々は内供が鼻のために苦しんでいることを確信してしまったから、そのことを笑っているのであって、鼻の長短を笑っているのではないのです。
◆芋粥(大正5年9月、『新小説』)
この物語の主人公である五位は、元慶か仁和年間の頃、藤原基経に仕える、だらしのない格好をした40歳過ぎの侍階級の下級貴族である。彼は、周囲の人々からも酷い仕打ちを受けていた。しかし、彼は怒りもせず、「いけぬのう、お身たちは」と言うだけであった。そんな彼は、とある夢を抱いていた。それは、芋粥(山芋を甘葛の汁で煮た粥)を飽きるほど食べたい、というものだった。その望みを聞いて、藤原利仁という人物が、その夢を叶えてやることになった。しかし、実際に大量の芋粥を目にして、五位は食欲が失せてしまうのであった。(Wikipediaより)
以下、末尾の一節です。
この物語の主人公である五位は、元慶か仁和年間の頃、藤原基経に仕える、だらしのない格好をした40歳過ぎの侍階級の下級貴族である。彼は、周囲の人々からも酷い仕打ちを受けていた。しかし、彼は怒りもせず、「いけぬのう、お身たちは」と言うだけであった。そんな彼は、とある夢を抱いていた。それは、芋粥(山芋を甘葛の汁で煮た粥)を飽きるほど食べたい、というものだった。その望みを聞いて、藤原利仁という人物が、その夢を叶えてやることになった。しかし、実際に大量の芋粥を目にして、五位は食欲が失せてしまうのであった。(Wikipediaより)
以下、末尾の一節です。
五位は、芋粥を飲んでいる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返つた。それは、多くの侍たちに愚弄されている彼である。京童にさえ「何じゃ。この鼻赤めが」と、罵られている彼である。色のさめた水干に、指貫をつけて、飼主のない尨犬のように、朱雀大路をうろついて歩く、憐む可き、孤独な彼である。しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云う慾望を、唯一人大事に守っていた、幸福な彼である。――彼は、この上芋粥を飲まずにすむと云う安心と共に、満面の汗が次第に、鼻の先から、乾いてゆくのを感じた。晴れてはいても、敦賀の朝は、身にしみるように、風が寒い。五位は慌てて、鼻をおさえると同時に銀の提に向って大きな嚔(くさめ)をした。芋粥を飽きるほど食べたいという願いがいざ現実のものとなると、五位はその圧倒的な量に尻込みしてしまいました。五位にとってその願いとは自身のみすぼらしさや意気地なさを取り繕うための自己欺瞞に過ぎなかったのでしょう。つまり、彼の願望は叶えるためにあったのではなく、憧れるためにあったのです。
◆運(大正6年1月、『文章世界』)
清水寺の参道にある陶器師の家で、青侍(身分の低い若侍)が観音様が授ける「運」にまつわる話を陶器師の翁に求めます。すると、翁はある女の運(幸運と不運)の話を始めます。
清水寺の参道にある陶器師の家で、青侍(身分の低い若侍)が観音様が授ける「運」にまつわる話を陶器師の翁に求めます。すると、翁はある女の運(幸運と不運)の話を始めます。
◆袈裟と盛遠(大正7年4月、『中央公論』)
この作品は前半が遠藤盛遠の独白、後半が袈裟御前の独白という構成になっています。『源平盛衰記』に題材を取っていますが、作者独自の解釈によって物語が作られています。
盛遠はこれから袈裟御前の夫を殺す直前、「己は果して袈裟を愛しているだろうか」と自問します。彼女への思いを遂げたのは征服心のためか、情欲のためか、苦悶します。しかし、結局「己はあの女を蔑んでいる。恐れている。憎んでいる。しかしそれでも猶、それでも猶、己はあの女を愛しているせいかも知れない」と独白します。
袈裟御前も独白の最後に「昔から私にはたった一人の男しか愛せなかった。そうしてその一人の男が、今夜私を殺しに来るのだ。この燈台の光でさえ、そう云う私には晴れがましい。しかもその恋人に、虐(さいな)まれ果てている私には」
久々に衝撃的な、心にガツンと来るラブストーリーを読んだ気がしました。
この作品は前半が遠藤盛遠の独白、後半が袈裟御前の独白という構成になっています。『源平盛衰記』に題材を取っていますが、作者独自の解釈によって物語が作られています。
盛遠はこれから袈裟御前の夫を殺す直前、「己は果して袈裟を愛しているだろうか」と自問します。彼女への思いを遂げたのは征服心のためか、情欲のためか、苦悶します。しかし、結局「己はあの女を蔑んでいる。恐れている。憎んでいる。しかしそれでも猶、それでも猶、己はあの女を愛しているせいかも知れない」と独白します。
袈裟御前も独白の最後に「昔から私にはたった一人の男しか愛せなかった。そうしてその一人の男が、今夜私を殺しに来るのだ。この燈台の光でさえ、そう云う私には晴れがましい。しかもその恋人に、虐(さいな)まれ果てている私には」
久々に衝撃的な、心にガツンと来るラブストーリーを読んだ気がしました。
【参考】
遠藤盛遠。鎌倉前期の僧侶文覚上人(もんがくしょうにん)の俗名。上西門院の北面の武士だった。18歳の時、袈裟御前に横恋慕し、袈裟の夫源左衛門尉渡を殺そうとして夫の身代わりとなった袈裟を斬った。その後出家し、高雄山神護寺再興をはかり、平家討伐に尽くしたといわれる。盛遠出家の物語は、多くの浄瑠璃や謡曲となって、袈裟御前の烈婦貞女像を定着させた。(巻末「注解」より)
遠藤盛遠。鎌倉前期の僧侶文覚上人(もんがくしょうにん)の俗名。上西門院の北面の武士だった。18歳の時、袈裟御前に横恋慕し、袈裟の夫源左衛門尉渡を殺そうとして夫の身代わりとなった袈裟を斬った。その後出家し、高雄山神護寺再興をはかり、平家討伐に尽くしたといわれる。盛遠出家の物語は、多くの浄瑠璃や謡曲となって、袈裟御前の烈婦貞女像を定着させた。(巻末「注解」より)
◆邪宗門(大正7年10~12月、『東京日日新聞』)
芥川さん、こりゃないよ。70ページ以上読ませて、(未完)だなんて。これからがクライマックスってところで終わっちゃうなんて。
芥川さん、こりゃないよ。70ページ以上読ませて、(未完)だなんて。これからがクライマックスってところで終わっちゃうなんて。
【参考】
堀川の大殿様の子である若殿様は、父親とは容姿、性格、好みすべて正反対で、優しく物静かな人物であった。その生涯は平穏無事なものであったが、たった一度だけ、不思議な出来事があった。
大殿様の御薨去から5、6年後、洛中に摩利信乃法師という名の沙門が現れ、障害や怪我に悩む人々を怪しげな力で治してまわり、信奉者を増やしていた。ある時、建立された阿弥陀堂の供養の折、沙門が乱入し、各地より集まった僧に対し法力対決をけしかけた。大和尚と称されていた横川の僧都でも歯が立たず、沙門がますます威勢を振りまく中、堀川の若殿様が庭へと降り立った。(Wikipediaより)
堀川の大殿様の子である若殿様は、父親とは容姿、性格、好みすべて正反対で、優しく物静かな人物であった。その生涯は平穏無事なものであったが、たった一度だけ、不思議な出来事があった。
大殿様の御薨去から5、6年後、洛中に摩利信乃法師という名の沙門が現れ、障害や怪我に悩む人々を怪しげな力で治してまわり、信奉者を増やしていた。ある時、建立された阿弥陀堂の供養の折、沙門が乱入し、各地より集まった僧に対し法力対決をけしかけた。大和尚と称されていた横川の僧都でも歯が立たず、沙門がますます威勢を振りまく中、堀川の若殿様が庭へと降り立った。(Wikipediaより)
◆好色(大正10年10月、『改造』)
平貞文(平中)は「天が下の色好み」(天下一の好色人)と自他共に認める女たらしです。たまに堅い女性があっても、手紙の2、3通で必ず落ちたと豪語しています。ところが、侍従という女性は60通も手紙を書いたのに会ってさえもくれません。そこで平中は意を決し、ある雨の夜に夜這いを仕掛けますが、うまくかわされてしまいます。
思いつめた平中は、とうとう侍従の糞(まり)を見れば「百年の恋も一瞬の間に、煙よりもはかなく消えてしまう」と思い込み、彼女の糞の入った筥(はこ)を奪おうとします。
平貞文(平中)は「天が下の色好み」(天下一の好色人)と自他共に認める女たらしです。たまに堅い女性があっても、手紙の2、3通で必ず落ちたと豪語しています。ところが、侍従という女性は60通も手紙を書いたのに会ってさえもくれません。そこで平中は意を決し、ある雨の夜に夜這いを仕掛けますが、うまくかわされてしまいます。
思いつめた平中は、とうとう侍従の糞(まり)を見れば「百年の恋も一瞬の間に、煙よりもはかなく消えてしまう」と思い込み、彼女の糞の入った筥(はこ)を奪おうとします。
平中は殆(ほとんど)気違いのように、とうとう筥の蓋を取った。筥には薄い香色の水が、たっぷり半分程はいった中に、これは濃い香色の物が、二つ三つ底へ沈んでいる。と思うと夢のように、丁子じの(におい)が鼻を打った。これが侍従の糞(まり)であろうか? いや、吉祥天女にしても、こんな糞はする筈がない。平中は眉をひそめながら、一番上に浮いていた、二寸程の物をつまみ上げた。そうして髭にも触れる位、何度もを嗅ぎ直して見た。は確かに紛れもない、飛び切りの沈(じん)のである。 「これはどうだ! この水もやはりうようだが、――」 平中は筥を傾けながら、そっと水を啜って見た。水も丁子を煮返した、上澄みの汁に相違ない。 「するとこいつも香木かな?」 平中は今つまみ上げた、二寸程の物を噛みしめて見た。すると歯にも透る位、苦味の交った甘さがある。その上彼の口の中には、忽(たちま)ち橘の花よりも涼しい、微妙なが一ぱいになった。侍従は何処から推量したか、平中のたくみを破る為に、香細工の糞をつくったのである。 「侍従! お前は平中を殺したぞ!」 平中はこう呻(うめ)きながら、ばたりと蒔絵の筥を落した。そうして其処の床の上へ、仏倒しに倒れてしまった。その半死の瞳の中(うち)には、紫摩金(しまごん)の円光にとりまかれたまま、てん然と彼にほほ笑みかけた侍従の姿を浮べながら。……
◆俊(大正11年1月、『中央公論』)
物語は俊の召使い有王(ありおう)によって語られます。琵琶法師の語る俊の話は嘘ばかりなので、この私が本当のことをお話ししましょう、という設定です。
俊と有王の美人についての問答がおもしろい。
物語は俊の召使い有王(ありおう)によって語られます。琵琶法師の語る俊の話は嘘ばかりなので、この私が本当のことをお話ししましょう、という設定です。
俊と有王の美人についての問答がおもしろい。
その時又一人御主人に、頭を下げた女がいました。これは丁度榕樹(あこう)の陰に、幼な児を抱いていたのですが、その葉に後を遮られたせいか、紅染めの単衣を着た姿が、夕明りに浮んで見えたものです。すると御主人はこの女に、優やさしい会釈を返されてから、 「あれが少将の北の方じゃぞ」と、小声に教えて下さいました。 わたしはさすがに驚きました。 「北の方と申しますと、――成経様はあの女と、夫婦になっていらしったのですか?」 俊寛様は薄笑いと一しょに、ちょいと頷いて御見せになりました。 「抱いていた児も少将の胤じゃよ」 「成程、そう伺って見れば、こう云う辺土にも似合わない、美しい顔をしておりました」 「何、美しい顔をしていた? 美しい顔とはどう云う顔じゃ?」 「まあ、眼の細い、頬のふくらんだ、鼻の余り高くない、おっとりした顔かと思いますが、――」 「それもやはり都の好みじゃ。この島ではまず眼の大きい、頬のどこかほっそりした、鼻も人よりは心もち高い、きりりした顔が尊まれる。その為に今の女なぞも、此処では誰も美しいとは云わぬ。」 わたしは思わず笑い出しました。 「やはり土人の悲しさには、美しいと云う事を知らないのですね。そうするとこの島の土人たちは、都の上臈を見せてやっても、皆醜いと笑いますかしら?」 「いや、美しいと云う事は、この島の土人も知らぬではない。唯好みが違っているのじゃ。しかし好みと云うものも、万代不変とは請合われぬ。その証拠には御寺御寺の、御仏の御姿を拝むが好よい。三界六道の教主、十方最勝、光明無量、三学無碍、億々衆生引導の能化、南無大慈大悲釈迦牟尼如来も、三十二相八十種好の御姿は、時代毎にいろいろ御変りになった。御仏でももしそうとすれば、如何かこれ美人と云う事も、時代毎にやはり違う筈じゃ。都でもこの後のち五百年か、或は又一千年か、とにかくその好みの変る時には、この島の土人の女どころか、南蛮北狄の女のように、凄まじい顔がはやるかも知れぬ」 「まさかそんな事もありますまい。我国ぶりは何時の世にも、我国ぶりでいる筈ですから」 「ところがその我国ぶりも、時と場合では当てにならぬ。たとえば当世の上臈の顔は、唐朝の御仏に活写しじゃ。これは都人の顔の好みが、唐土になずんでいる証拠ではないか? すると人皇何代かの後には、碧眼の胡人の女の顔にも、うつつをぬかす時がないとは云われぬ」また、俊は藤原成親の屋敷へ通ったために、鹿ヶ谷事件に連座させられたとして、その理由を以下のように述べています。
「其処が凡夫の浅ましさじゃ。丁度あの頃あの屋形には、鶴の前と云う上童(うえわらわ)があった。これがいかなる天魔の化身か、おれを捉えて離さぬのじゃ。おれの一生の不仕合わせは、皆あの女がいたばかりに、降って湧いたと云うても好よい。女房に横面を打たれたのも、鹿ヶ谷の山荘を仮したのも、しまいにこの島へ流されたのも、――しかし有王、喜んでくれい。おれは鶴の前に夢中になっても、謀叛の宗人にはならなかった。女人に愛楽を生じたためしは、古今の聖者にも稀ではない。大幻術の摩登伽女には、阿難尊者さえ迷わせられた。竜樹菩薩も在俗の時には、王宮の美人を偸む為に、隠形の術を修せられたそうじゃ。しかし謀叛人になった聖者は、天竺震旦本朝を問わず、唯の一人もあった事は聞かぬ。これは聞かぬのも不思議はない。女人に愛楽を生ずるのは、五根の欲を放つだけの事じゃ。が、謀叛を企てるには、貪嗔癡の三毒を具えねばならぬ。聖者は五欲を放たれても、三毒の害は受けられぬのじゃ。して見ればおれの知慧の光も、五欲の為に曇ったと云え、消えはしなかったと云わねばなるまい。――」
俊(?-1179)
平安末期の僧。法勝寺の執行(しゅぎょう)、後白河院の近臣として活躍。鹿ヶ谷事件で藤原成経、平康頼と共に鬼界ヶ島に配流。成経、康頼が大赦で都に召し返されてのちも、独り白石が島に移され、その地で没した。「平家物語」他、文学、戯曲に脚色されることが多かった人物。
有王
俊僧都の召使。幼時から仕え、俊が鬼界ヶ島に流されると逢いに行き、俊の死後その遺骨を高野山に納めて出家する。(巻末「注解」より)
平安末期の僧。法勝寺の執行(しゅぎょう)、後白河院の近臣として活躍。鹿ヶ谷事件で藤原成経、平康頼と共に鬼界ヶ島に配流。成経、康頼が大赦で都に召し返されてのちも、独り白石が島に移され、その地で没した。「平家物語」他、文学、戯曲に脚色されることが多かった人物。
有王
俊僧都の召使。幼時から仕え、俊が鬼界ヶ島に流されると逢いに行き、俊の死後その遺骨を高野山に納めて出家する。(巻末「注解」より)