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my 見仏記38~運慶展

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特別展「運慶」は、正門を入って左奥の「平成館」で開催されています。


 今日、上野の東京国立博物館に「興福寺中金堂再建記念 特別展『運慶』」(9月26日~11月26日)を見に行ってきました。

◆この特別展について、図録『運慶』から主催者による「ごあいさつ」を引用します。
 運慶(生年不詳~1223)は、平安時代から鎌倉時代へと移り変わる激動の時代に、写実的で力強い仏像を数多く生み出した仏師です。この展覧会は、その運慶が20代半ば頃に造ったとみられる安元2年(1176)の円成寺(えんじょうじ)大日如来坐像から、晩年の健保4年(1216)の作である光明院大威徳明王坐像まで運慶作の仏像を一堂に集め、その造形の特色を御覧いただこうとするものです。
 さらに、父の康慶、息子の湛慶や康弁ら親子三代にわたる作品を通じて、運慶が独自の作風を生むに至った軌跡と、その後の継承をたどります。運慶に焦点を当てた展覧会としては、質量ともに過去最大規模のもので、運慶の作品の魅力に触れるまたとない機会です。
 現在、青年期の運慶の活動拠点であった興福寺では、来年秋を目指し、江戸時代に失われた中心堂宇である中金堂の再建を進めています。本展は、その約300年ぶりの完成を記念する展覧会でもあります。
 (以下略)

◆感想等
・これまでの見仏の中で、仏師に注目するようなことはなかったように思います。でも今回、運慶の多くの作品に触れ、「誰が造ったか」という見方も時には必要だと思いました。
・願成就院(静岡県伊豆の国市)や瀧山寺(愛知県岡崎市)、金剛峯寺(和歌山県高野町)など、なかなか行けそうにないお寺の仏像が見られたのがよかった。また、興福寺の北円堂や南円堂の、普段は見られない仏像が見られたのはラッキーでした。次は、それぞれのお寺に行って見仏したいと思いました。
・玉眼の迫力、リアリティーが凄い!
・6月に訪れた海住山寺の四天王立像に再会できたのは嬉しかった。
・10月末か、11月にまた見に行こうと思います。

以下、印象に残った仏像を紹介しようと思います。(写真は図録「運慶」をコピー)

大日如来坐像(運慶作、国宝)

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 木造・漆箔・玉眼、像高98.8cm、平安時代(1176年)、円成寺(奈良市)
 本像は胸前で智拳印という印相(いんぞう)を結ぶ、真言密教の教主大日如来の像である。現存する運慶の作品のうち、最も早い20代の作であり、また運慶の卓越した能力が早くも存分に表われた作として、有名な像である。(図録『運慶』作品解説より)
※今度奈良に行くときは、円成寺にも行こうと思います。


毘沙門天立像(運慶作、国宝)

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 木造・彩色・玉眼、像高148.2cm、鎌倉時代(1186年)、願成就院(静岡県伊豆の国市)
 胸甲(むなごう)の下に石帯を巻く装飾などは、奈良時代に遡る神将形像の形式を取り入れており、面貌表現や左手に宝塔を捧げ、右手に戟(げき)をとる姿は、中国の神将形像にならっていることが指摘されている。ただし運慶は、古典学習を単なる古典的形式の踏襲にとどめず、学んだ形を再構成して新しい造形へと昇華させた。
 本像の左に大きく腰をひねり、高い位置に右手をあげて戟を持つ姿は、それまでの神将形像とは異なって颯爽とした勢いを感じさせ、本像の大きな魅力の一つとなっている。また、顔立ちにも、理想的な写実性を実現しようとした運慶の構想力が遺憾なく発揮されている。こうして運慶が創造した新しい毘沙門天像の姿は、その後、武将神のあるべき姿として受け継がれていくことになるのである。(図録『運慶』作品解説より)
※四天王のうち、北方を護る多聞天が単独で祀られる時の名が毘沙門天です。なお蛇足ですが、兜跋(とばつ)毘沙門天像は毘沙門天の異形像です。


四天王立像(国宝)

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左から広目天、増長天、持国天、多聞天。

 木造・彩色、像高[広目天]200cm[増長天]197.5cm[持国天]206.6cm[多聞天]197.2cm、鎌倉時代(13世紀)、興福寺南円堂(奈良市)
 現在、興福寺南円堂に安置されているが、興福寺曼荼羅(京都国立博物館蔵)をはじめとする南円堂の安置仏を描いた画像との照合により、今、仮講堂にある四天王立像(康慶作)が、本来、南円堂に安置されていた像であることが明らかになり、この四天王像の原所在は不明となった。(中略)
 最近では北円堂説が注目を集めている。興福寺曼荼羅と図像的にほぼ一致するためである。この場合は建暦2年(1212)の運慶一門の作ということになる。ただし、身体の色から、赤い持国天を増長天に、緑色の広目天を持国天に、肌色の増長天を広目天にそれぞれ置き換えて、持国天が湛慶、増長天が康運、広目天が康弁、多聞天が康勝という分担ということになる。興福寺曼荼羅では北円堂の四天王像はすべて邪気を踏み、広目天は両手で戟(げき)を執り、多聞天は兜(かぶと)をかぶるなど相違点がある。興福寺曼荼羅の制作年代は不明で、運慶造像以前の可能性もある。また、像の姿を正確に写すことを目的にはしていない可能性もある。また、今この四天王像が立つ岩座は後補とみられるので、かつては邪鬼を踏んでいた可能性もある。
 持国天像、多聞天像はダイナミックな動き、優れた出来栄えから運慶作の可能性は十分考えられる。ただ、激しい怒りの表情、甲(よろい)のにぎやかな装飾などは願成就院、浄楽寺の毘沙門天像と比べると大きな開きがあり、弥勒如来、無著・世親像の静かな雰囲気とも異質である。
 無著・世親像に玉眼を用いるが、四天王像は玉眼を採用せず、瞳を浮き彫りする理由も不明である。(図録『運慶』作品解説より)
※順路に従い、八大童子立像(運慶作、金剛峯寺、国宝)を見てホッコリしていたら、目の前に四天王立像が現れました。一瞬その迫力に気圧されましたが、すぐに素晴らしい仏像に出会えた感激に心がウキウキしてきました。
 四天王像といえば、東大寺戒壇堂のものが最高だと思っていましたが、こちらもそれに負けず劣らずだと思いました。戒壇堂の四天王が「静」の威厳に満ちているとしたら、こちらは「動」の凄みを放っていると感じました。


無著(むじゃく)菩薩立像(運慶作、国宝)

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 木造・彩色・玉眼、像高193cm、鎌倉時代(1212年頃)、興福寺北円堂(奈良市)
 興福寺北円堂は、奈良時代前期の養老5年(721)に、藤原氏の特権貴族としての地位をゆるぎないものにした藤原不比等の追善のために建てられた堂である。この堂もまた、治承4年(1180)の南都焼討によって焼失してしまった。興福寺の重要な堂であったにもかかわらず、復興は遅れ、正治2年(1200)頃にようやく始動することとなった。
 北円堂には、もともと、興福寺がかかげる法相宗教祖の弥勒如来と脇侍の法苑林(ほうおんりん)・大妙相(だいみょうそう)、また法相宗の教えを体系化した無著・世親という、5世紀のインドの祖師2人、そして四天王の9?默の像が安置されていた。
 これら9?默の像の復興は、承元2年(1208)12月に、法印運慶を総責任者として、工房古参の仏師や運慶の子どもたちを中心に、主だった仏師10人を率いて行われた。完成したのは、4年後の建暦2年のことであった。現在の弥勒如来坐像と無著菩薩・世親菩薩立像がこの時の復興像として北円堂に安置されており、晩年の運慶が率いた運慶工房の作としてよく知られている。なお、脇侍像は台座を除き後世の像に替わり、四天王像は、現在は奈良の大安寺から移されてきた平安初期の像が安置されている。
 (中略)
 無著・世親像の像高は2メートル近く、また体?默の奥行きもいちじるしく厚みがあり、実在の人物を表すには巨像である。身にまとう厚手の衣には、きわめて大ぶりな襞(ひだ)が刻まれていて豪快である。実在の人間の姿をありのままに再現しようとはせず、むしろ、遠い過去の人物の偉大さを、圧倒的な立体の存在感で表そうとしている。ここには総監督としての運慶の意図が、十分にうかがえるように思われる。
 頭部と体部の主要部は、一つないしは二つの用材が組み合わされて構成されており、ほとんど一木彫像であるかのような仕口(しくち)である。この構造が圧倒的な立体感につながったと考えられるのである。(図録『運慶』作品解説より)



聖(しょう)観音菩薩立像(運慶・湛慶作、重要文化財)

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 木造・彩色、像高174.4cm、鎌倉時代(1201年頃)、瀧山寺(たきさんじ、愛知県岡崎市)
 この聖観音菩薩立像は、梵天・帝釈天立像とともに瀧山寺の中にあった惣持禅院に伝来した。鎌倉時代に編纂された『瀧山寺縁起』の寛永20年(1643)の写本には、惣持禅院は正治3年(1201)、源頼朝の三回忌供養のため頼朝の従兄にあたる僧寛伝が建立し、頼朝等身大の聖観音像を造り、像内に頼朝の鬢(びん)と歯を納めたこと、作者は運慶と湛慶であると記されている。X線撮影により、頭部内の口の位置に納入品のあることが確認できたため、縁起の記述について信憑性が証明された。また、像の作風と出来栄えから運慶・湛慶の作と認められている。寛伝は熱田大宮司範忠の子、頼朝の母は憲忠の妹である。
 (中略)
 聖観音像の上半身は、条帛(じょうはく)が左肩から右腹に斜めにわたるほかは露出している。浄楽寺の脇侍像では両肩を天衣が覆うが、この像では両肘から背面にまわる天衣が身体から浮いているためである。天衣が背面に漂うのに符合するように裙(くん)が風を受けてひるがえっている。肉付き豊かな肩、背中は東寺講堂の四菩薩坐像に近い雰囲気である。条帛と裙の打ち合わせの2か所に渦巻き状の衣文があるのも平安時代前期の像に通ずる(腕や天衣の陰になって見えない)。(図録『運慶』作品解説より)
※以前写真を見て、白いし、上半身はほとんど裸だし、ずいぶん艶かしいなと思いました。でも間近で見ると、そういうことは忘れ、厳かな気持ちになりました。会場の説明文によると、彩色は江戸時代の後補とのことです。


天燈鬼立像・龍燈鬼立像(国宝、龍燈鬼=康弁作)

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天燈鬼立像

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龍燈鬼立像

 木造・彩色・玉眼、像高[天燈鬼]77.9cm[龍燈鬼]77.3cm、鎌倉時代(1215年)、興福寺国宝館(奈良市)
 大きな燈籠をかつぐ2?默の邪鬼像である。龍燈鬼像の像内に納められていた紙片に、建保3年(1215)の康弁作であることが記されていたという。康弁は運慶子息の一人で、三男とみられる。両像は、もともと興福寺の西金堂に安置されていたことが江戸時代の記録からわかる。火災以前の記録にその名前が見えないため、鎌倉の再興時に新しく造られたようだ。邪鬼は四天王の足元にうずくまるばかりでなく、台座や供物台を支えるものとしても、大陸では頻用されたモチーフである。日本では類品に乏しいが、エキゾチックでユーモラスな両鬼が、荘厳な堂内に彩りを添えたことだろう。
 左肩に燈籠を担い、右手を突っ張って拳を握り、咆哮するのが天燈鬼。頭上に燈籠を載せ、まとわりつく龍の尻尾を握り、歯を食いしばるのが龍燈鬼である。赤色で表わされる天燈鬼と、緑色で表わされる龍燈鬼は、それぞれ身色をはじめ、燈籠のかつぎ方、姿勢、表情など対称的に表現される。金剛力士や獅子・狛犬のように、天燈鬼を阿形、龍燈鬼を吽形として、造り分けたものと思われる。燈籠はいずれも後に補われたもので、台座は古像から転用されたようだ。本来の意匠がどのようであったかは知られない。(図録『運慶』作品解説より)
※四天王などに踏みつけられる姿が一般的なのに、ここでは邪鬼を立たせています。そこがとてもユニークです。
※天燈鬼と龍燈鬼は、特別展「運慶」の公式キャラクターです。以下、公式ホームページから画像を引用します。描いたのは石黒亜矢子さんです。
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◆運慶の現存する作品について、図録『運慶』の「運慶作品の所在一覧」を参考にまとめてみました。
 運慶は奈良、京都に拠点を置いて仏師の一団を率いました。その生涯に多くの仏像を造ったとみられますが、現存する運慶作あるいはその可能性が高い仏像は、31体という見方が一般的です。これらの仏像のうち本展覧会には、これまでの展覧会のなかで最多の22体が出陳されています。(◆本展に出陳、◇未出陳)
【栃木県】
◆光得寺・大日如来坐像(重文)
【東京都】
◆真如苑真澄寺・大日如来坐像(重文)
【神奈川県】
◆光明院・大威徳明王坐像(重文)※神奈川県立金沢文庫管理
◆浄楽寺・阿弥陀如来坐像(重文)
◆浄楽寺・観音菩薩立像(重文)
◆浄楽寺・勢至菩薩立像(重文)
◆浄楽寺・不動明王立像(重文)
◆浄楽寺・毘沙門天立像(重文)
【静岡県】
◆願成就院・毘沙門天立像(国宝)
◇願成就院・阿弥陀如来坐像(国宝)
◇願成就院・不動明王立像(国宝)
◇願成就院・矜羯羅(こんがら)童子立像(国宝)
◇願成就院・制吒迦(せいたか)童子立像(国宝)
【愛知県】
◆瀧山寺・聖観音菩薩立像(重文)
◇瀧山寺・梵天立像(重文)
◇瀧山寺・帝釈天立像(重文)
【京都府】
◆六波羅蜜寺・地蔵菩薩坐像(重文)
【奈良県】
◆円成寺・大日如来坐像(国宝)
◆東大寺・重源上人坐像(国宝)
◆興福寺北円堂・無著菩薩立像(国宝)
◆興福寺北円堂・世親菩薩立像(国宝)
◆興福寺国宝館・仏頭(重文)※銅造仏頭(旧山田寺仏頭・国宝)とは別
◇興福寺北円堂・弥勒如来坐像(国宝)
◇東大寺南大門・金剛力士立像(2体、いわゆる仁王像、国宝)
【和歌山県】
◆金剛峰寺・八大童子立像(6体)

◆グッズ・土産
・図録『運慶』

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