『石田比呂志全歌集』(01)より、「初期歌篇」について、一読して気になった歌を引用します。
「初期歌篇」は、第一歌集『無用の歌』(65)に採取しなかった歌を集めたもので、作歌期間は1948年(18歳)から64年(34歳)までです。
「初期歌篇」は、第一歌集『無用の歌』(65)に採取しなかった歌を集めたもので、作歌期間は1948年(18歳)から64年(34歳)までです。
這ふごとく低く位置して働きつづく心だけは卑しくなるまい
華やかと言はば言ふべし点滅するネオンの中の群衆にゐる
浮薄なる流動に身をまかせつつすでに昨日の吾がかへらぬ
あはれまれ帰り来るとき遮断機が下りて黒々貨物車過ぎゆく
崩れゆく砂丘に足を踏みしめて視野のかぎりは信じてゐやう
影もたぬビル街に白くとりまかれ白昼方位を失くしてゐたり
飴あまく含みてゐたる人不意に硝子のそとの降る雪を言ふ
水色に光る壁ありそこまでは行つてみたくて来し冬の道
いつの場合も自分に執しゐたるなり貧しくて真の恋をなし得ず
野を低く落ちゆく川の見えながら曲りぎわ白く光りてゐたり
幸福といふ語感も杳(とほ)き思ひにて海までは吾の行かず歩をかへす
ひとり耐ゆべき苦しさを告げゐつつすでに内部におこる空転
僅かなる金のため媚びし日の昏れを硝子の破片摩滅してゐる
足許よりひもじく昏れてゆきし路地吾が影は長く曲折をもつ
耐へて来し貧しさを言はず跼まれば夕日に胡頽子(ぐみ)が沁むまで朱し
凹凸のままに揺れゐるバスのなか寄り合へば匂ふ人間信頼
瞞されてゐるかも知れずあぢさゐのかたへに佇ちし女(ひと)に笑まるる
君の家の前をゆくとき口笛の節を凝らすあるいは吾は少年
暖かく君の瞳に雪が降る別るると不意に振り向きしとき
相擁し目くらむべき一瞬もなに思ひ吾の燃えぬ箇所あり
離(さか)リゆく君と思へど群れて咲く花の紅きをなほ話題とす
悔恨の心もありて別れゆく朝の軌条は陽に耀(かがよ)へり ※軌条=レール。線路
終日を生魚(せいぎよ)いらひて来し指が乳房まさぐる夜を生ぐさし
蛇を打つ吾が残酷を責めらるる籠に生魚を買ひ来し母に
移り来し暗き厨に泣く母を知らず華やぎし吾の少年期
栄華にてありし没落の屋敷跡野菊咲き桔梗咲きコスモス咲けり
広きわれの掌に握られて別れゆくときにし卵形(らんけい)の心を見する
垂直に溺れてゆかむ吾のため君のこと少しづつ知りてゆきたし
はなやかに雨のあがりしゆふべにて君に逢ふための事務をいそぎぬ
ひとたびは殺意を持ちし人と遇ふ刃物類光る夜の店にて
片側の窓はなやかに茜して照らされてをり吾の片心(へんしん)
悦楽に同化しながら茫茫とわたしの心の海が鳴るなり
光芒つよき星のひとつに夜夜対(むか)ふ持続して光るもの吾になし
表情もゆるめず勤め終へて来て顔貌固きままに睡りぬ
逢へば惨めになりゆく吾と思ひつつ一途に今日は君に逢ひたし
自らのことのみ云ひし逢ひの果て受けとめてくれしは吾のどの部分
別れ際に抱きしめてやる肩うすしそのままつぶれてしまふと思ふ
事務所には明るすぎると思ひつつ日日置く机に紅きダリヤを
やすやすと君の鏡に照らさるる見たることなき吾の背中を
すがりくる意外に強き力なりあるいは男の知らぬ力ぞ
疲るれば君に逢ひたき日がつづき追はるるやうに冬に入りけり
酔ひて高く歌ひしことも自らのさびしさのため記憶してゆく
雑沓を抜け来て急に寂しかり何に気ぜはしく吾の歩める
働きても喰へぬと言ひくる労務者に何もしてやれねば聞いてゐてやる
くぐまりて自ら暖をとらむとす酔ひ覚めし未明の駅のベンチに
「貧窮は人の心を弱くす」とつきつめてひと日しきりに思ふ
吾がために負ひたる不幸のひとつにて快活さを日々君は失ふ
訛多き会合にいたく疲れつつあがりぎはの雨を窓に見て立つ
冬固き坂上りゆくある角度月に鋭く光る屋根あり
果報など知らざる裔に生れ来て人を愛してよろしいものか
「生活を大切にせよ」と耳打ちて君の声鳴る楽のごとくに
もの言わずをる時の吾を後ろより抱きて君は母のごとしよ
溺るると言ふ語が吾を甘やかすかかはりあらぬ時に浮かびきて
吾のみの傷みと言はず戦争に貧困にはやく過ぎし青春
見下ろしてゐてこつけいにあるときは傲巖に額の中の祖父像
吾のことに容喙(ようかい)しなくなりてより時折父が眼をしばたたく
決断にみひらかれたる君の瞳に映りて吾の暗さ限りなし
他愛なき男と君に思はれゐて欠歯(けつし)見えやすきやうに笑へり
身の廻りの整理をすれば生活の改まらむかと机置き変ふ
没落の家族らの醜(しう)あばかるるどこからも日に射しこまれつつ
肉親を打擲しきし夜の街きらめきてポリエチレンの中の金魚
頬ずりをしつつ抱きし幼子が吾を見透す如く笑ひぬ
甘言のごとくしきりに響ききて「青春を浪費せよ」といふ声
とりとめのなきさまに君と歩きをりいつまでも日の傾かぬ冬の街
君待ちてゐる時の吾の明るさに光りつつ冬の雨が降りくる
吾の好む服着て街に逢ひくるる君の一途に瞞されやすし
霙降る夜の街に酔ひ苦しみき恋のこと仕事のことわたくしのこと
人間も個人も信じがたけれど生活にはおほよそ無関係なり
売り終へて帰る道ふと立ち止まる修羅の如き顔われはしてゐむ
追ひつめられゐる如く来しビルの上地上よりいくらも離れてをらず
わが未来の啓示の如く展けゆく坂あり坂の上は曇天
うつむきて歩むゆゑ前方が見えぬといふ当り前のことに気づきたり
漸くに癒えて帰りし妻をすぐ働きに出す仕方なければ
跼まりてゐるときのわれ跼みこむための力もやはりつかひて
さびしけど吾の暮しは働きて得たる小さき金銭を出でず
滑稽に凹凸鏡に映りゐるわれ本来の吾かも知れず
粉々に割れし鏡の破片のなか映されてゐるわが千の顔
もうひとつの人生といふを思ひ切れず三十歳の半ばに至る