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my 見仏記39~運慶展(再)

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午前11時50分頃、会場の平成館前に到着。しかし、そこには入場待ちの列ができており、最後尾には「60分待ち」の案内板。


 今日、上野の東京国立博物館に「興福寺中金堂再建記念 特別展『運慶』」(9月26日~11月26日)を見に行ってきました。10月5日以来二度目でしたが、前回と違い、今日は大変な混みようでした。
 「60分待ち」のつもりが30分ほどで入場できたのはラッキーだと思いましたが、会場内の混みようには閉口しました。ゆっくり、じっくりなんて無理だと思い、見たかった仏像だけを見てさっさと引き上げました。でも、今回の見仏のおかげで、また奈良へ行こうという思いが湧いてきました。今年はもう無理ですが、来春奈良に行こうと思います。

四天王立像(国宝、興福寺南円堂)(特別展「運慶」公式サイトより)
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左から、広目天、増長天、持国天、多聞天。

※順路に従い、無著菩薩立像・世親菩薩立像(国宝、運慶作)の展示スペースに近づくと、この2体を守護するように配置された四天王立像が目に飛び込んできました。手前左に増長天、右に持国天。後方左に広目天、右に多聞天。増長天と持国天の仏敵を睨みつける目は迫力満点。怖いです。今日はこの四天王立像が見たかったんだ。
 この際、四天王についてちょっと復習。
 東方・持国天、南方・増長天、西方・広目天、北方・多聞天と四方を守護する役目をもち、須弥壇(しゅみだん)の四隅に安置されて、如来や菩薩を護るのが四天王。向かって右前から右回りに、持、増、広、多と配置される例が多く見られます。
 甲冑をつけ、邪鬼(仏法を犯す鬼)を踏んで立つ勇ましい姿が四天王像の特徴で、他の仏像よりも動きがあります。像容と持物(じもつ)は必ずしも一定していませんが、持国天と増長天は剣や矛(ほこ)などの武器、増長天の後ろに立つ広目天は筆と巻物、多聞天は宝塔を持つのが通例となっています。
 早くから信仰されていたこともあって造像例は多く、日本各地に各時代の四天王像が残されています。持国天と多聞天、あるいは持国天と増長天の組み合わせで2天を祀ったり、多聞天だけ単独で祀る場合(引用者注:この時、毘沙門天と呼ばれる)もあります。(石井亜矢子『仏像の見方ハンドブック』より)

 ※四天王の基本的な配置
    広目天      多聞天

         本尊
        (須弥壇)

    増長天      持国天

重源上人坐像(国宝)(特別展「運慶」公式サイトより)
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 木造・彩色、像高81.4cm、鎌倉時代(13世紀)、東大寺
 建永元年(1206)6月、南都焼討によって焼失した東大寺の大仏と大仏殿の復興に力の限りを尽くした重源が、86歳で亡くなった。復興のための寄付をつのる勧進(かんじん)の役割に就いたのが、養和元年(1181)の60歳を過ぎてからのことで、それから25年が経過していた。
 東大寺の復興造営にたずさわる前の重源の足跡はあまりよくわかっていない。重源は13歳で醍醐寺に入り、全国の山々をめぐって山岳修行にいそしんだ。また中国には3度も渡ったという。文殊信仰の聖地としてよく知られていた中国・五台山への巡礼がかなわなかったため、天台宗の聖地天台山や舎利塔で有名であった阿育王山に赴いた。阿育王山で舎利塔を参拝したことが、後の重源の舎利信仰につながったと考えられている。こうした重源の旺盛な行動力と、そのなかで培われたきわめて広範囲な人的ネットワークが、復興造営にも大いに役立つこととなった。
 高さ10メートルを超える大仏の鋳造には、中国人の鋳師陳和卿(ちんなけい)を起用し、また東大寺大仏殿や南大門といった巨大建築には、いわゆる大仏様という中国宋代の建築様式が導入された。困難な大復興事業のために次々と打ちだした方策には、重源の情報収集の幅広さ、大胆さ、決断力の高さが存分にうかがえる。

 本像は、こうした困難な事業を成功へと導いた、重源の人となりを思い起こさせる肖像彫刻の傑作の一つである。薄い灰色の衣に袈裟をかけて、数珠をつまぐり、背を丸めて坐す。眼は落ちくぼみ、頬はこけ、皺が深く刻まれたさまは、老いた僧侶の姿を克明に写し出している。口元を「へ」の字に表わすのも、強い意志をもっていた重源その人をしのばせる。
 本像がいつ頃造られたかは、はっきりしていないが、重源が没した後、寺に遺像を置いたと伝えられており、重源が亡くなってほどない頃であろうと推測されている。たしかに、生々しい木造の描写には、生前、重源に親しく接していた人物の目が感じられるようでならない。
 本像の作者としては、これまでに、生前、重源に帰依して重源周辺の造像に深くかかわってきた快慶と、大仏殿内の造像に起用された慶派の棟梁運慶、あるいは慶派一門の定慶の名が挙げられている。本像では、痩せた老人の体?默をそのまま再現するようなことはせず、像主の存在感を彫像の物理的な厚みや重みで表そうとしている。この表現のあり方は、運慶総指揮のもとに造られた興福寺北円堂の無著菩薩立像・世親菩薩立像に通じているように思われ、本像の制作者も運慶もしくは運慶一門の直径筋を想定したい。(図録『運慶』作品解説より)

※重源上人坐像は10月7日からの展示だったので、前回(10/5)は見られませんでした。これまで写真では見ていましたが、木造なのに彩色だからでしょう、リアリティーを感じました。
 肖像彫刻といえば、西大寺の叡尊上人坐像を思い出します。この像は昨年5月に東京国立博物館で初めて見ました。その後、今年3月に西大寺で、さらに4月には奈良西大寺展(4/1-6/11、三井記念美術館)で見ました。3度も見ると、見るというより会うという感じで、とても親しみを感じています。重源上人坐像も再度別の場所で、できれば東大寺で見たいと思います。

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本館前のユリノキが紅葉していました。

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