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小池光『石川啄木の百首』を読みました。

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 今日、小池光『石川啄木の百首』(2015)を読み終えました。
 著者による巻末の「解説『歌』の原郷」には、石川啄木(1886-1912)の生い立ちから26歳2ヶ月という若過ぎる死までが概説されています。この中で、印象に残った部分を引用します。
 短歌は一千三百年のむかしから人はこの形式によって歌ってきたので、きわめて由緒正しいものである。短歌を志す者は否応なしにこの伝統の末端に身をひたすことになる。しかし、『一握の砂』以降の啄木はこういう伝統の末端という意識にまったく囚われなかった。「私は小説を書きたかつた。否、書くつもりであつた。又実際書いても見た。さうして遂に書けなかつた。其時、恰度夫婦喧嘩をして妻に敗けた夫が、理由もなく子供を叱つたり虐めたりするやうな一種の快感を、私は勝手気儘に短歌といふ一つの詩形を虐使する事に発見した」(「弓町より」)と正直に告白しているけれど、短歌とはそういう逆説的手段だったのである。歌人になど、なりたくなかったのである。しかし、その小説や評論は人のよく取り上げるものにはならなかったが、短歌ばかりは残って今日に愛唱される。これが逆説でなくてなんであろう。近代短歌の第一人者は誰がみても斎藤茂吉であろうけれど、茂吉の歌にはついになかったものを啄木の短歌は残した。さびしいとき、悲しいとき、都会の雑踏に迷うとき、ふとこの世に自分の居場所がないように感じられるとき、人は唇の上に歌を上らせてひとときわが身を慰める。『一握の砂』で『悲しき玩具』で、とりわけ前者において啄木の歌はまさにそのようなものであった。それは短歌という制限された文学の伝統的一形式でなく、むきだしの「歌」そのものといっていい。近代の無名無数の人々のこころに、そっとその失楽失意への共感と慰めをあたえる近代の「歌」を、その原郷として啄木は作ってみせたのである。

 没後第二歌集の『悲しき玩具』が出る。このタイトルは「歌のいろいろ」というエッセイの最後の一行に「目を移して、死んだもののやうに畳の上に投げ出されてある人形を見た。歌は私の悲しい玩具である。」とあるところから、土岐哀果が命名した。


 以下、気になった歌と、その解説文の一部(または全部)を引用します。
いたく錆びしピストル出(い)でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに
 (『一握の砂』)
※石原裕次郎のヒット曲「錆びたナイフ」は、明らかに啄木のこの一首を下に敷く。「砂山の砂を、指で掘ってたら、まっかに錆びたジャックナイフが出て来たよ」。啄木の短歌はしばしば歌謡曲に流用される。

ひと夜(よ)さに嵐来りて築きたる
この砂山は
何(なに)の墓ぞも
 (『一握の砂』)
※啄木は、海辺の砂山の歌を十首、これまでの歌から集め、また新しく書き足して『一握の砂』の冒頭に据えた。この歌もその中にあり、初出は明治42年5月号の「スバル」。ひじょうに砂山の存在感のある歌で、センチメンタルな要素がない。夜来の嵐が去って、海辺の様相が一変している。あちらこちらに、なかったはずの小さな砂山ができている。それを見て何の墓かと思うのである。3行目の結句が意外な展開で、はっとさせられる。
 やはり函館の大森海岸での散策の折の印象が、元になっているだろう。

いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ
 (『一握の砂』)
※『一握の砂』というタイトルの原型になった歌。

たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽(かろ)きに泣きて
三歩あゆまず
 (『一握の砂』)
※これも有名な歌。評判のよろしからざる点でも有名である。妹の光子は、この歌を見て、こんなことは嘘だと呟いたと伝えられるが、まさしくそういうものであろう。絵に描いた親孝行の場面のように思われるが、「たはむれに」親を背負うなどという行為が、はたして親孝行なものかどうか、立ち止まって考えてみる必要がある。親は子供のオモチャではない。
 啄木は身長158センチ、体重45キロの小柄で、兵隊検査は丙種不合格であった。やすやすと母を背負う体力に欠ける。すべては夢であり、願望なのである。(僕も母を背負ってみたかったよ。)

怒(いか)る時
かならずひとつ鉢を割り
九百九十九割りて死なまし
 (『一握の砂』)
※この歌は九百九十九という数字がおもしろくて、ここでいわゆる「歌になる」。九百九十九個ではなく、区切りのいい千個ならおもしろくもなんともない。それでは歌にならない。

はたらけど
はたれけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり
ぢつと手を見る
 (『一握の砂』)
※啄木にはすぐれたフレーズ・メーカーのようなところがある。一首の歌のなかに、一度聞いたらわすれられないフレーズが潜む。ほかの歌人には見られない特色である。現代に啄木が生きていたら人気随一の優秀なコピー・ライターにもなっていただろう。
 「ぢつと手を見る」というフレーズはその典型的文案例で極めて普遍性がある。こういうとき人はどうするか、じっとわが手を見るよりないのだという発見と指摘は、100年を経てまざまざと今日に生動している。「手」に結晶した自愛とその失望感。近代短歌を代表する一首だ。

うぬ惚(ぼ)るる友に
合槌(あひづち)うちてゐぬ
施与(ほどこし)をするごとき心に
 (『一握の砂』)
※相手の顔を立てて合槌をうちながら、心の中ではほどこしだと思っているのである。
 でもそれは歌の外見で、本当は反転された自画像なのだろう。啄木ほどうぬぼれが強かった人間が外にいるわけでない。うぬ惚れているのは友ではなく、啄木自身であり、ほどこしの心をもってそれを受け入れてくれたのは友人たちである。やがて啄木はそのことに気づく。

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ
 (『一握の砂』)
※自分が友人たちの中でだれよりもえらいと、うぬぼれやまなかった啄木だが、あるときふっと弱きの虫に捕らわれた。ひょっとすると一切は思い上がりで、本当は誰も彼もみんな自分より立派な人間じゃないか、と。そういうとき、普段は念頭になかった妻のことがふとなつかしく、切実に思われてくる。花でも買って行って喜ばせてやろう。花を花瓶に差して、ふたりでしみじみした気持ちになろう。家庭らしい家庭の夢をみよう。

不来方(こずかた)のお城のあとの草に臥(ね)て
空に吸はれし
十五のこころ
 (『一握の砂』)
※盛岡は城下町で、中心部に不来方城の城址がある。盛岡中学校はそのそばにあった。数え15歳の啄木は、盛岡中学校の3年生。
 「不来方」の地名がよく効いている。ふたたび来ることのない方。お城が別の名前だったなら啄木はこうは詠まなかったろう。もう二度と来ない、早熟な青春だったから15歳のこころは空に吸われるのであった。

かにかくに渋民(しぶたみ)村は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川
 (『一握の砂』)
※「かにかくに」はとにもかくにもの意。とにもかくにも渋民村は恋しい、思い出の山よ、思い出の川よ、というのでこれ以上ない故郷賛歌にさすがの渋民村も恐縮するような感じがする。望郷の念が額縁に嵌まっているようで、概念的なのである。「渋民村」の固有名詞を除いたら文部省唱歌「故郷」の歌詞に直結しよう。

やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに
 (『一握の砂』)
※啄木の歌にはいろいろの人物が出てきて、そこになつかしい味わいがあるのだが、純粋な自然詠はあまり数はない。この歌はそういう中ではやや例外的にふるさとの自然だけで歌が終始している。

宗次郎(そうじろ)に
おかねが泣きて口説(くど)き居り
大根の花白きゆふぐれ
 (『一握の砂』)
※酒飲みの夫に、妻がくどくど泣きながら生活の窮状を訴えるという場面。啄木の住むところから、かなしい夫婦喧嘩の声が聞こえたのであろう。
 この歌は上句で具体的な上にも具体的に現実を描写しながら、下句で一転して大根の花に転ずるところが巧い。貧窮の現状が、このかそかな花を配することで、さらにも鮮明になった。かなしい初夏の夕暮れである。

汪然(わうぜん)として
ああ酒のかなしみぞ我に来(きた)れる
立ちて舞ひなむ
 (『一握の砂』)
※この歌の汪然は、涙をながしているの意であろう。酒を飲んでいたらとめどない悲しみがやって来て、涙がこぼれてきた。そういうときどうするか、立っていにしえの武将のように舞うのである、という歌。立って舞う、というところが力強くていい。酒が、堂々と映る。

秋の雨に逆反(さかぞ)りやすき弓のごと
このごろ
君のしたしまぬかな
 (『一握の砂』)
※啄木の三行書きはほとんどが句ごとに改行して行くが、この歌の二行目、三行目のように句のなかばで改行する場合もある。あくまで意味の上から、読みやすいように改行する。歌の下句としては「このごろ君の/したしまぬかな」である。

函館の青柳町(あをやぎちやう)こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花
 (『一握の砂』)
※この歌はことにも愛唱性に富む。青春が息づくようである。青柳町にはわが家があり、また友人たちも住んでいた。おりから矢車草が咲くころである。青い矢車草の花のイメージが「青柳町」の「青」と響き合う。

子を負(お)ひて
雪の吹き入る停車場に
われ見送りし妻の眉かな
 (『一握の砂』)
※『一握の砂』には「かな」で終わる歌が多い。その多くはAにおけるB、プラス「かな」という構造をとる。Aは場面であり、Bはそれに対するいわば「景物」である。場面を設定し、景物をそこに添え「かな」でまとめてしまう。こんなに「かな」止めを多用した近代歌人は外にない。
 この一首もその構造をしている。雪の吹き入る停車場という場面に妻の眉という景物を添える。そして軽い詠嘆の「かな」。釧路に立つ啄木を小樽の停車場で見送る。

みぞれ降る
石狩の野の汽車に読みし
ツルゲエネフの物語かな
 (『一握の砂』)
※ごく単純な歌意ながら北方をさすらう旅情味が新鮮に伝わる。

うたふごと駅の名呼びし
柔和なる
若き駅夫(えきふ)の眼をも忘れず
 (『一握の砂』)
※啄木の「忘れがたき人人」にはこういう一瞬のゆきずりの人が多数含まれる。特別親密な交流があったのでもなんでもない。ただ通りすがりの無名の、なんの関係もない人々。その一瞬の横顔がふかく刻まれて、歌になっているのである。啄木が、啄木自身をその若い駅員に投影している。なつかしさのゆえんである。

出しぬけの女の笑ひ
身に沁みき
厨(くりや)に酒の凍る真夜中
 (『一握の砂』)
※そういう場所で、だしぬけに酒場の女が笑う。格別おもしろいことがあったわけでなく、笑うよりほかにないから笑ったのであろう。荒涼とした情感が身に沁みる。台所の酒が凍るような寒い夜であった。地の果ての場末の歓楽街の光景が眼に浮かぶようである。

小奴(こやつこ)といひし女の
やはらかき
耳朶(みみたぼ)なども忘れがたかり
 (『一握の砂』)
※その耳たぶを噛んだのであろう。ふっくらと、やわらかい耳たぶであった。性愛の一場面を意表を衝いたディテールで印象ぶかく切り取っている。こういうことが記憶に残るのである。
 小奴は本名渡辺じんといって啄木より4つ年下、釧路花界の花形で人気があった。後に結婚して子供も生み、晩年は東京都下の老人ホームに暮らした。亡くなったのは昭和40年で、76歳まで生きた。晩年には短歌を作ることもあった。「ながらへて亡き啄木を語るとき我の若きも共になつかし」などと歌っている。

山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君を思へり
 (『一握の砂』)
※この「君」は小奴とは別人、函館の弥生小学校時代の同僚橘智恵子が「君」のその人。啄木は3ヶ月もいれば恋愛の対象をそこにもう見いだしてしまうのである。

つくづくと手をながめつつ
おもひ出でぬ
キスが上手(じやうず)の女なりしが
 (『一握の砂』)
※「ぢつと手をみる」をはじめとして、啄木の歌には「手」がよく出てくる。手をみることの多かった人であった。わが手を見るともなく見ながら、ふっと別れた女を思い出す。この展開は唐突といえば唐突で、連想の飛躍が著しいが、言い換えるとそこには一種の速度感があり、現代的で、啄木の歌のあたらしさがまたあるだろう。

やや長きキスを交(かは)して別れ来(き)し
深夜の街の
遠き火事かな
 (『一握の砂』)
※これもキスの歌で、回想というより現在の匂いがするからそこらで遊んでの帰り道だろう。
 そうして帰ってきたら、遠くの方が火事であった。燃え上がる炎が遠くに見える。ふと立ち止まってちょっと眺め、また歩きだす。都会生活の分断された人間の孤独をつよく感じさせ、現代の短歌の中にまぎれていても何の違和感もないであろう。

たひらなる海につかれて
そむけたる
目をかきみだす赤き帯(おび)かな
 (『一握の砂』)
※海の青にも疲れ、目をそむけたら、そばにいる女の帯の赤にもかきみだされる。どこを見ればいいのだろう。この世に居場所がないように感じられる。こう歌う啄木のこころは、あきらかに弱っている。

思出(おもひで)のかのキスかとも
おどろきぬ
プラタスの葉の散りて触(ふ)れしを
 (『一握の砂』)
※この歌は二行目の「おどろきぬ」が意表を衝く。顔に触れた落ち葉におどろいて、むかしのキスに連想が行く。こういう感覚は啄木ならではのもので、連想への飛躍がきわめて瞬間的である。「おどろきぬ」におどろく。

おそ秋の空気を
三尺四方ばかり
吸ひてわが児(こ)の死にゆきしかな
 (『一握の砂』)
※三尺四方であるから1立方米ばかりであろう。気体の計測量として最小単位の量である。たったそれだけのこの世の空気を吸っただけで、わが子は死んでしまった。

底知れぬ謎にむかひてあるごとし
死児(しじ)のひたひに
またも手をやる
 (『一握の砂』)
※体温のぬくもりの残るその額に何度も何度も手をおいてみる。なにをどうすればいいか、どうこの現実を受け止めて行くべきか、赤子が、生まれて、死ぬということはどういうことなのか、一切は「底知れぬ謎」である。

呼吸(いき)すれば、
胸の中(うち)にて鳴る音あり。
  凩(こがらし)よりもさびしきその音!
 (『悲しき玩具』)
※『悲しき玩具』の巻頭歌。胸の中で鳴る音は肺結核のラッセル音であろう。その音はどんな凩よりもさびしい。啄木が歌った最後の一首と思っていい。

咽喉(のど)がかわき、
まだ起きてゐる果物屋を探しに行きぬ。
秋の夜ふけに。
 (『悲しき玩具』)
※『一握の砂』と『悲しき玩具』の違いはいくつかある。三行書きは変わらないが、表記の上からはこの歌のように句読点を用いるようになる。また感嘆符「!」疑問符「?」もしきりに用いられる。行頭の一字下げも試みられる。要するに歌が表記上散文的になるのである。

旅を思ふ夫(をつと)の心!
叱り、泣く、妻子(つまこ)の心!
朝の食卓!
 (『悲しき玩具』)
※朝っぱらすでに父親は旅する夢想のこころがむくむくと湧いている。母親は子供を叱り、子供は泣く。3人の親子がてんでんばらばらに違う方向を向いて、ひとつの食卓を囲む。実に殺伐たる光景である。これが啄木の置かれた噓いつわりない家庭の現状であった。『悲しき玩具』で3行ともに行尾に「!」が付くのはこの歌だけである。

家を出(で)て五町(ちやう)ばかりは
用のある人のごとくに
歩いてみたれど――
 (『悲しき玩具』)
※家を飛び出して、さも所用あるかのように5町ばかりは歩いてみたけれど、どこに行くあてのあるでなかった。そのどんづまりの心の風景を無造作に切り取って差し出している。啄木を最大に苦しめたのは実にその家庭である。貧乏で、みな病気で、嫁姑の確執もあり、耐え切れず父は家出し、妻も子供を連れて実家に帰ったりした。なにより中心であるべき啄木が不如意の文学の人であり、つまりは夢想する人で、実生活についてはまったく頼りにならなかった。やりきれない思いのする歌である。

人がみな
同じ方角に向いて行(ゆ)く。
それを横より見てゐる心。
 (『悲しき玩具』)
※都市生活者の群集心理を思わせる。みなそれぞれに違う思いを抱きながら、結局同じ方向を向いて突っ走っている。日本社会の当時の現状ともいえるだろう。それを横目に見ながら、じぶんは入ってゆくことができない。啄木の孤独がごく素直な表現の中に刻まれており、秀作ではないが、一読忘れ難い。

引越(ひつこ)しの朝の足もとに落ちてゐぬ、
女の写真!
忘れゐし写真!
 (『悲しき玩具』)
※啄木は明治42年の6月から家族とともに本郷弓町の床屋の二階に住んだ。2年ばかりも住み、さまざまなことがあり、明治44年の8月、友人の世話で小石川区久堅町の一軒家に転居し、ここが終の棲み家となった。歌の引越しは、この最後の引越しの場面だろう。
 荷物の中からこぼれて、女の写真が出てきた。足元に落ちていた。あわてて仕舞う。妻に見られてはいけない。誰の写真だったかは不明だが、啄木の生涯を一瞥すれば写真をくれるような女性はいくらもいる。「!」を2か所に配し、荒涼たるこころの風景を刻み込む。

この四五年(しごねん)
空を仰ぐといふことが一度もなかりき。
かうもなるものか?
 (『悲しき玩具』)
※この歌のとき啄木は25歳である。その4、5年前は北海道時代、そのころから空を仰ぐということを忘れて、現実の地べたばかり這いずりまわって生きてきた。そういう変化におどろく。かつての啄木はしきりに空を仰いでは青春の夢に耽ったものであった。「不来方(こずかた)のお城のあとの草に臥(ね)て/空に吸はれし/十五のこころ」。
 「かうもなるものか?」が何といってもインパクトある。ここには歌らしい詠嘆はどこにもない。散文的にごくそっけなく放り出したような口調である。それが読者のこころに食い入る。『悲しき玩具』屈指の一首である。

何(なに)となく自分をえらい人のやうに
思ひてゐたりき。
子供なりしかな。
 (悲しき玩具)
※三句四句結句とみな字余りで五、七、六、八、八の歌。定形からどんどん逸脱してゆく。『一握の砂』にはこういう破調はなかった。『悲しき玩具』の違うところはこのように歌がいわば解体してゆくところにある。

ある日、ふと、やまひを忘れ、
牛の啼(な)く真似をしてみぬ――
  妻子(つまこ)の留守に。
 (『悲しき玩具』)
※啄木歌には悲しきユウモアとでもいうべき歌がある。ふと笑いの兆す歌がある。この歌は代表的なそれで、すでに死を親しいものにした重篤な病人が牛の啼き真似をするというところに切ないおかしみがある。家の中に誰もいないことを確かめて。

庭のそとを白き犬ゆけり。
  ふりむきて、
  犬を飼はむと妻にはかれる。
 (『悲しき玩具』)
※『悲しき玩具』の巻末の歌である。


【参考】
小池 光
 1947年宮城県生まれ。1972年東北大学理学部大学院修了。学生時代より短歌をはじめ、歌集に『バルサの翼』(現代歌人協会賞)、『廃駅』、『日々の思い出』、『草の庭』(寺山修司短歌賞)、『静物』(芸術選奨文部科学大臣新人賞)、『滴滴集』(斎藤茂吉短歌文学賞)、『時のめぐりに』(迢空賞)、『山鳩集』(小野市詩歌文学賞)など。評論エッセイ集に『茂吉を読む―五十代五歌集』(前川佐美雄賞)、『うたの動物記』(日本エッセイスト・クラブ賞)など。平成25年度紫綬褒章受賞。現在、読売新聞歌壇ほか選者。仙台文学館館長。(ブックカバー裏表紙より)

 以下、小高賢編著『現代の歌人140』(2009)より、小池光の歌をいくつか引用します。
ひとたばの芍薬が網だなにあり 下なる人をふかくねむらす
千歳飴のふくろすなほに下げてゐる写真出てきてものおもひけり
遺伝子配列三十億対を読み終へてうつくしき水晶の夜がくる
足の爪遠いところに生えてゐてそれを翦(き)らむと曲げゆくからだ
チェルノブイリの人去りし村に夏草はうつしみの美のかぎりをつくす

姫沙羅はことしも白く花咲けり見上ぐるときに遠流(おんる)のこころ
蛍光灯のカヴァーの底を死場所としたるこの世の虫のかずかず
まぼろしの長元坊のこゑきけば山をくだりてわれは行くもの
みづからのこゑを運びて鳥はとぶメタセコイヤのぬれし林に
金柑をひとつ丸呑みしたるのちかがやきながら巷(ちまた)をあるく

図書館の窓べのすみにゴムの木は見てゐるときに葉を散らしたり

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