今日、レイモンド・チャンドラーの『水底(みなそこ)の女』(1943、村上春樹訳)を読み終えました。
この作品は、私立探偵フィリップ・マーロウを主人公とする7冊の長編小説の4番目にあたります。
この作品は、私立探偵フィリップ・マーロウを主人公とする7冊の長編小説の4番目にあたります。
【感想等】
◆最初から犯人が誰か予想できたし、説明が不十分だと思うところもありましたが、マーロウが活躍するこのシリーズは大好きです。
◆最後の場面、マーロウが犯人を前に謎解きをします。そして、犯人は逃走し車ごと崖から落ちます。船越英一郎主演の2時間サスペンスドラマのラストは崖の前での謎解きとか。そのルーツはマーロウかも。
◆最初から犯人が誰か予想できたし、説明が不十分だと思うところもありましたが、マーロウが活躍するこのシリーズは大好きです。
◆最後の場面、マーロウが犯人を前に謎解きをします。そして、犯人は逃走し車ごと崖から落ちます。船越英一郎主演の2時間サスペンスドラマのラストは崖の前での謎解きとか。そのルーツはマーロウかも。
【参考】訳者あとがき「これが最後の一冊」より(抜粋して引用)
チャンドラーが『水底の女』を出版したのは1943年で、彼はそのとき55歳になっていた。本格的に小説を書き始めたのが40代の半ば、最初の長篇を出版したのが50歳のときだから、55歳といっても、作家としてのキャリアにおいては、いちばん脂がのっていた時期と言ってもいいくらいである(はずだ)。しかしチャンドラーは、彼にとって4作目の長篇小説にあたるこの小説(時系列的には『高い窓』と『リトル・シスター』のあいだに挟まれている)を、かなりだらだらと時間をかけて書き続けていたようだ。彼自身の言によれば、想を得てこの小説を書き始めてから完成させるまでに、実に4年の歳月を要している。
『水底の女』は彼が雑誌に掲載したふたつの短篇小説がもとになっている。チャンドラーはよくこういう長篇小説の書き方をした。雑誌にまず短篇として書いておいて(とりあえず原稿料を稼ぐためだ)、後日それをいくつか組み合わせ、長篇に作り替えていくのだ。たとえば『さよなら、愛しい人』が「トライ・ザ・ガール」と「翡翠」をもとにして作られているように。チャンドラー自身はこのような旧作再生作業を「屍体を食らう(cannibalizing)」という不吉な言葉で、おそらくは自虐的に表現している。その作業がすらすらと順調に進む場合もあれば、あまりしっくりと噛み合ってこない場合もあった。『水底の女』はどちらかといえばその後者の例にあたるだろう。
『水底の女』は――あくまで僕の見方からすればということだけれど――チャンドラーの7作の長篇小説の中では少しばかり異色の作品と言っていいかもしれない。良くも悪くも、他の作品とは肌合い、色合いが違っている。僕がこの作品を翻訳リストのいちばん最後にまわしておいたのも、そのせいだ。
『水底の女』が他の作品と趣を異にしている点はまず第一に、この物語が基本的にプロット1本でできあがっていることだろう。そのプロットとはもちろん、話が始まってすぐに出てくる、山中の湖に沈んでいた女性のアイデンティティーに関することであって、これはミステリーを読み慣れた人なら、どういう仕掛けなのかおおよその想像がついてしまう。そのような言うなればゆるめのプロットひとつで、長篇小説の長丁場を押し切ってしまおうというのだから、そもそもの基礎構造にいささかの無理がある。そういうところは、チャンドラーらしくないと言っても差し支えないだろう。彼はもともとそういう「本格派」のプロット重視主義を厳しく批判してきた人だからだ。
しかし今回この小説を訳してみてあらためて感じたのは、それでもやはりマーロウものは読んでいて面白いし、そのらしくなさがある意味、逆にこの小説のチャーミングなポイントになっているのかもしれない……ということだった。この時期のマーロウは年齢的に若過ぎもしないし、また円熟し過ぎてもいない。力余ってぴきぴきしてもいないし、かといって過度に厭世的になってもいない。どちらかといえばこの物語の中のマーロウは、他作に比べてよりニュートラルな存在となっているかもしれない。彼は登場人物の誰にも深くコミットはしない。誰かに深く心を惹かれることもなく、誰かのせいで激しく感情を乱されたり揺さぶられたりすることもない。彼は一人の経験豊かなプロフェッショナルとして、与えられた仕事を着実にこなしていくだけだ。
先にも述べたようにこの小説はふたつの短篇小説が土台になっている。短篇小説といってもかなり長いもので、短めの中篇小説と言ってもいいくらいだ。「レイディ・イン・ザ・レイク(The Lady in the Lake 1939)」(タイトルは長篇と同じだ)は湖に沈んでいるのを発見された女性の死体に関する話で、「ベイシティ・ブルース(Bay City Blues 1938)」は麻薬医者の奥さんが自殺したとされる事件に関する話だ。デガルモ警部補はド・スペインという名前で後者に登場し、依頼主のドレイス・キングズリーはハワード・メルトンという名前で前者に登場する。そのふたつの話をひとつに結びつけたわけだが、その結びつけ方にはいささか無理がある。まるでスタイルの違う家を2軒、むりやりくっつけたみたいなところがある。流れの異なるプロットを合流させるために、作者は「偶然」に力に頼り過ぎていると感じさせる箇所が、ところどころにある。
※引用者注
短篇小説「レイディ・イン・ザ・レイク」「ベイシティ・ブルース」は、チャンドラー短篇全集3『レイディ・イン・ザ・レイク』(ハヤカワ・ミステリ文庫)に収録されています。なお、前出の短篇小説「トライ・ザ・ガール」「翡翠」は同シリーズ2『トライ・ザ・ガール』に収録されています。
とくに僕が気になったのは、探偵のジョージ・タリーがどのような経緯でアルモア医師の家に居合わせ、クリス・レイヴァリーと共にアルモア夫人の死体をガレージの中に発見し、その証拠のダンス靴を手に入れたかという箇所だ。この部分は説明があらっぽいというか、不十分なので、前後の状況がかなりわかりにくい。僕ももとになった短篇「ベイシティ・ブルース」を再読して、「ああそうか、そういうことなのか」となんとか理解できたような次第だ。著者の手抜きとまでは言わないが、親切心がいくぶん不足していることは確かだろう。ミリュエルがどうしてアンクレットを粉砂糖の中に隠さなくてはならなかったか、そのへんの事情説明も、もう少し詳しくされていてもいいのではないだろうか?
それでもこの小説には、そのようないくつかの瑕疵(かし)をしっかり埋め合わせるだけの、多くの美点が含まれている。まず第一にこの話には、読者の目を惹きつけるカラフルな人物が次々に登場する。そして洒落た愉快な会話がある。おかげで我々は飽きることなく、最後まで楽しく本のページを繰ることができる。
ピューマ湖近辺の小さな町で警察官をつとめるジム・パットンはとりわけ興味深い、魅力的な人物だ。(中略)しかしいずれにせよ、年代物のフロンティア・コルトを腰に差した、のんびり、飄々とした――しかしなかなか食えない――ジム・パットンが登場してくるおかげで、この小説は人間味と明るさをぐっと増しているように感じられる。
『水底の女』は彼が雑誌に掲載したふたつの短篇小説がもとになっている。チャンドラーはよくこういう長篇小説の書き方をした。雑誌にまず短篇として書いておいて(とりあえず原稿料を稼ぐためだ)、後日それをいくつか組み合わせ、長篇に作り替えていくのだ。たとえば『さよなら、愛しい人』が「トライ・ザ・ガール」と「翡翠」をもとにして作られているように。チャンドラー自身はこのような旧作再生作業を「屍体を食らう(cannibalizing)」という不吉な言葉で、おそらくは自虐的に表現している。その作業がすらすらと順調に進む場合もあれば、あまりしっくりと噛み合ってこない場合もあった。『水底の女』はどちらかといえばその後者の例にあたるだろう。
『水底の女』は――あくまで僕の見方からすればということだけれど――チャンドラーの7作の長篇小説の中では少しばかり異色の作品と言っていいかもしれない。良くも悪くも、他の作品とは肌合い、色合いが違っている。僕がこの作品を翻訳リストのいちばん最後にまわしておいたのも、そのせいだ。
『水底の女』が他の作品と趣を異にしている点はまず第一に、この物語が基本的にプロット1本でできあがっていることだろう。そのプロットとはもちろん、話が始まってすぐに出てくる、山中の湖に沈んでいた女性のアイデンティティーに関することであって、これはミステリーを読み慣れた人なら、どういう仕掛けなのかおおよその想像がついてしまう。そのような言うなればゆるめのプロットひとつで、長篇小説の長丁場を押し切ってしまおうというのだから、そもそもの基礎構造にいささかの無理がある。そういうところは、チャンドラーらしくないと言っても差し支えないだろう。彼はもともとそういう「本格派」のプロット重視主義を厳しく批判してきた人だからだ。
しかし今回この小説を訳してみてあらためて感じたのは、それでもやはりマーロウものは読んでいて面白いし、そのらしくなさがある意味、逆にこの小説のチャーミングなポイントになっているのかもしれない……ということだった。この時期のマーロウは年齢的に若過ぎもしないし、また円熟し過ぎてもいない。力余ってぴきぴきしてもいないし、かといって過度に厭世的になってもいない。どちらかといえばこの物語の中のマーロウは、他作に比べてよりニュートラルな存在となっているかもしれない。彼は登場人物の誰にも深くコミットはしない。誰かに深く心を惹かれることもなく、誰かのせいで激しく感情を乱されたり揺さぶられたりすることもない。彼は一人の経験豊かなプロフェッショナルとして、与えられた仕事を着実にこなしていくだけだ。
先にも述べたようにこの小説はふたつの短篇小説が土台になっている。短篇小説といってもかなり長いもので、短めの中篇小説と言ってもいいくらいだ。「レイディ・イン・ザ・レイク(The Lady in the Lake 1939)」(タイトルは長篇と同じだ)は湖に沈んでいるのを発見された女性の死体に関する話で、「ベイシティ・ブルース(Bay City Blues 1938)」は麻薬医者の奥さんが自殺したとされる事件に関する話だ。デガルモ警部補はド・スペインという名前で後者に登場し、依頼主のドレイス・キングズリーはハワード・メルトンという名前で前者に登場する。そのふたつの話をひとつに結びつけたわけだが、その結びつけ方にはいささか無理がある。まるでスタイルの違う家を2軒、むりやりくっつけたみたいなところがある。流れの異なるプロットを合流させるために、作者は「偶然」に力に頼り過ぎていると感じさせる箇所が、ところどころにある。
※引用者注
短篇小説「レイディ・イン・ザ・レイク」「ベイシティ・ブルース」は、チャンドラー短篇全集3『レイディ・イン・ザ・レイク』(ハヤカワ・ミステリ文庫)に収録されています。なお、前出の短篇小説「トライ・ザ・ガール」「翡翠」は同シリーズ2『トライ・ザ・ガール』に収録されています。
とくに僕が気になったのは、探偵のジョージ・タリーがどのような経緯でアルモア医師の家に居合わせ、クリス・レイヴァリーと共にアルモア夫人の死体をガレージの中に発見し、その証拠のダンス靴を手に入れたかという箇所だ。この部分は説明があらっぽいというか、不十分なので、前後の状況がかなりわかりにくい。僕ももとになった短篇「ベイシティ・ブルース」を再読して、「ああそうか、そういうことなのか」となんとか理解できたような次第だ。著者の手抜きとまでは言わないが、親切心がいくぶん不足していることは確かだろう。ミリュエルがどうしてアンクレットを粉砂糖の中に隠さなくてはならなかったか、そのへんの事情説明も、もう少し詳しくされていてもいいのではないだろうか?
それでもこの小説には、そのようないくつかの瑕疵(かし)をしっかり埋め合わせるだけの、多くの美点が含まれている。まず第一にこの話には、読者の目を惹きつけるカラフルな人物が次々に登場する。そして洒落た愉快な会話がある。おかげで我々は飽きることなく、最後まで楽しく本のページを繰ることができる。
ピューマ湖近辺の小さな町で警察官をつとめるジム・パットンはとりわけ興味深い、魅力的な人物だ。(中略)しかしいずれにせよ、年代物のフロンティア・コルトを腰に差した、のんびり、飄々とした――しかしなかなか食えない――ジム・パットンが登場してくるおかげで、この小説は人間味と明るさをぐっと増しているように感じられる。
【参考】フィリップ・マーロウを主人公とする7冊の長編小説
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上段左から、『大いなる眠り』(39)『さよなら、愛しい人』(40)『高い窓』(42)『水底の女』(43)
下段左から、『リトル・シスター』(49)『ロング・グッドバイ』(53)『プレイバック』(58)
上段左から、『大いなる眠り』(39)『さよなら、愛しい人』(40)『高い窓』(42)『水底の女』(43)
下段左から、『リトル・シスター』(49)『ロング・グッドバイ』(53)『プレイバック』(58)