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my 見仏記41~仁和寺と御室派のみほとけ(再)

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仁和寺観音堂を展示室に再現。左端にちょっとユーモラスな風神がいます。

 今日、上野の東京国立博物館に特別展「仁和寺と御室派のみほとけ ― 天平と真言密教の名宝 ― 」(1月16日~3月11日)を見に行ってきました。1月16日以来二度目でしたが、今回は2月14日から展示されている大阪・葛井寺(ふじいでら)の「千手観音菩薩坐像」を見るのが目的でした。
 今日は午前9時40分頃、会場の平成館につきましたが、前回と違いちょっとした行列ができていて、入場まで10分ほど待ちましたが、会場内はそれほど混んではいませんでした。おかげで、大阪・道明寺の十一面観音菩薩立像と同・葛井寺の千手観音菩薩坐像、京都・仁和寺の観音堂(再現)をゆっくり見ることができました。優れた仏像と共にあることに喜びを感じましたが、やはり仏像はお寺で見たいという思いも強く持ちました。春になったら、奈良に行こうと思います。


千手観音菩薩坐像(奈良時代、国宝、大阪府藤井寺市・葛井寺)(写真は図録及び絵ハガキをコピー)
 脱活乾漆造、漆箔。像高131.3cm
 葛井寺は、大阪府の中南部を東西に流れる大和川と支流の石川の合流地点付近に位置する。機内で最も早くから開けたこの土地では、渡来系氏族が集住し、5世紀代には巨大古墳が築かれた。その後は古墳にかわって、有力氏族の寺院が多数建立された最先端の地域である。
 葛井寺を建立した葛井氏は、5世紀後半から6世紀半ばに朝鮮半島からの渡来系一族の末裔で、奈良時代には多くの官僚等を輩出した。この伝統ある葛井氏の氏寺の本尊、千手観音菩薩坐像は、神亀2年(725)に、聖武天皇の発願によって、伝説的な仏師である稽文会(けいぶんえ)・稽主勲(けいしゅくん)が制作し、行基が開眼したと寺伝に伝えられている。頭上に十一面をいただき、胸前で合掌する手と像をまわりに半円形に広がる脇手とをあわせて1041本の手をもち、各手の掌には目が描かれる、十一面千手千眼観音菩薩坐像である。インドの初期密教が生み出した変化観音の一つで、天平7年(735)に中国から帰朝した玄がその受容に大きな役割を果たした。
 本像の作風は、天平年間(729~749)後半の作と考えられてきた、奈良・東大寺の法華堂諸像と共通することが指摘されている。たしかに、本像の顔立ちは、目、鼻、口といった面部の細かな造作をふくめて法華堂の日光・月光菩薩像と非常によく似ている。また本体を脱活乾漆造り、脇手をキリ材を心とする木心乾漆造りとする高度な技術を駆使して造られた造形は、法華堂諸像を制作した官営工房に類する工房に所属する工人によるものとみてまず間違いない。
 ただし、近年の研究成果により、法華堂の建立は天平年間の後半ではなく、少しさかのぼる可能性が高い。こうした最新の成果や、奈良時代における千手観音の受容から考えると、本像の制作年代は天平年間の前半頃とするのが穏当であろうか。(図録より)

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仁和寺観音堂を再現(仏像は本物)(ここだけ写真撮影可)
 僧侶の修行道場のため一般には非公開の観音堂を展示室に再現したものです。千手観音菩薩立像の脇侍として降三世(ごうざんぜ)明王立像と不動明王立像が配されていますが、この三尊構成は珍しいそうです。また、従者である二十八部衆に風神・雷神を加えて三十尊とする構成は、京都の三十三間堂にならっているそうです。

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中央に千手観音。脇侍として降三世明王・不動明王を配し、従者である二十八部衆に風神・雷神を加えている。全33体は江戸時代、17世紀の作。

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左端に風神立像。

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右端に雷神立像

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二十八部衆立像のうち、迦楼羅(かるら)王

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