◆東大寺
円成寺からレンタカーで東大寺へ。ちょうど小中学生の修学旅行の時期と重なり、駐車場待ちの渋滞に巻き込まれてしまいました。
久々に大仏殿を拝観するつもりでしたが、あまりの人の多さにパスすることにしました。法華堂(三月堂)の堂内はとても静かで、外の喧騒とは対照的でした。日光・月光菩薩立像が東大寺ミュージアムに移ってしまったので、不空羂索観音菩薩立像だけ拝観できればいいと思っていましたが、今回は金剛力士像(阿吽の2体)に心惹かれ、ゆっくり拝観することができました。
戒壇堂はいつも通り静かで、持国天→多聞天→広目天→増長天と、堂内を2周してじっくり拝観することができました。
円成寺からレンタカーで東大寺へ。ちょうど小中学生の修学旅行の時期と重なり、駐車場待ちの渋滞に巻き込まれてしまいました。
久々に大仏殿を拝観するつもりでしたが、あまりの人の多さにパスすることにしました。法華堂(三月堂)の堂内はとても静かで、外の喧騒とは対照的でした。日光・月光菩薩立像が東大寺ミュージアムに移ってしまったので、不空羂索観音菩薩立像だけ拝観できればいいと思っていましたが、今回は金剛力士像(阿吽の2体)に心惹かれ、ゆっくり拝観することができました。
戒壇堂はいつも通り静かで、持国天→多聞天→広目天→増長天と、堂内を2周してじっくり拝観することができました。
東大寺は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。金光明四天王護国之寺ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏を本尊とし、開山は良弁である。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70m以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。
東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70m以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。
東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている
南大門
天平創建時の門は平安時代に大風で倒壊した。現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人が再建したもので、今はない鎌倉再建の大仏殿の威容を偲ばせる貴重な遺構である。正治元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)には門内に安置する仁王像とともに竣工した。入母屋造、五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造となっている。また屋根裏まで達する大円柱18本は、21mにも及び、門の高さは基壇上25.46mもある。大仏殿にふさわしいわが国最大の山門である。
仁王像二体は、昭和63年から5年間にわたって全面解体修理が行われ、天平創建期から向かい会って立っていたことや、山口県で伐採された木材が、約1年程で搬送され、古文書の記述通り、ほぼ70日間で二体同時進行で、造像されたことも証明された。(東大寺HPより)
仁王像二体は、昭和63年から5年間にわたって全面解体修理が行われ、天平創建期から向かい会って立っていたことや、山口県で伐採された木材が、約1年程で搬送され、古文書の記述通り、ほぼ70日間で二体同時進行で、造像されたことも証明された。(東大寺HPより)
金剛力士像(仁王像)〈阿形〉
金剛力士像(仁王像)〈吽形〉
法華堂(三月堂)
東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)の遺構とされる。752(天平勝宝4)の東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)には「羂索堂(けんさくどう)」とあり、不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂である。旧暦3月に法華会が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。
もとは寄棟造りの正堂(しょうどう)と礼堂(らいどう)が軒を接して建つ配置であったが、鎌倉時代、礼堂を入母屋造りに改築して2棟をつないだ。正堂は天平初期の建築だが、礼堂は大仏様の特色が見られる鎌倉時代の建築。時代の異なる建築が高い技術によって結ばれ、調和の取れた美しい姿を見せる。(東大寺HPより)
もとは寄棟造りの正堂(しょうどう)と礼堂(らいどう)が軒を接して建つ配置であったが、鎌倉時代、礼堂を入母屋造りに改築して2棟をつないだ。正堂は天平初期の建築だが、礼堂は大仏様の特色が見られる鎌倉時代の建築。時代の異なる建築が高い技術によって結ばれ、調和の取れた美しい姿を見せる。(東大寺HPより)
不空羂索観音菩薩立像(中島久美『カラー版 奈良の仏像さんぽ』より)
金剛力士像〈吽形〉(法華堂リーフレットより)
戒壇堂
754年(天平勝宝6)、聖武上皇は光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真から戒を授かり、翌年、日本初の正式な授戒の場として戒壇院を建立した。戒壇堂・講堂・僧坊・廻廊などを備えていたが、江戸時代までに3度火災で焼失、戒壇堂と千手堂だけが復興された。平成25年1月に堂内照明装置を全てLED化。消費電力は8分の1、熱と紫外線も殆んど出なくなりました。(東大寺HPより)
四天王立像は、法華堂の日光・月光菩薩像および執金剛神像と共に、奈良時代の塑像の最高傑作の一つ。怒りの表情をあらわにした持国天、増長天像と、眉をひそめ怒りを内に秘めた広目天、多聞天像の対照が見事である。記録によれば、創建当初の戒壇院四天王像は銅造であり、現在の四天王像は後世に他の堂から移したものである。(Wikipediaより)
四天王立像は、法華堂の日光・月光菩薩像および執金剛神像と共に、奈良時代の塑像の最高傑作の一つ。怒りの表情をあらわにした持国天、増長天像と、眉をひそめ怒りを内に秘めた広目天、多聞天像の対照が見事である。記録によれば、創建当初の戒壇院四天王像は銅造であり、現在の四天王像は後世に他の堂から移したものである。(Wikipediaより)
増長天立像(絵葉書をコピー、以下同じ)
持国天立像
多聞天立像
広目天立像
法華堂から西へ。大仏殿を上から見おろす風景が現れます。
◆グッズ・土産
・絵葉書「東大寺のほとけたち」
・絵葉書(四天王像)
・クリアファイル(広目天)
・絵葉書「東大寺のほとけたち」
・絵葉書(四天王像)
・クリアファイル(広目天)