久保田正文編『新編 啄木歌集』(1993)を読みました。(再々)
この歌集は、「一握の砂」「悲しき玩具」「補遺」で構成されていますが、「補遺」は読みませんでした。
以下、一読して気になった歌を引用します。なお、啄木の歌は「三行書き」が基本ですが、〈例〉のように、一行書きに改めて引用します。
〈例〉東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
→東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる
この歌集は、「一握の砂」「悲しき玩具」「補遺」で構成されていますが、「補遺」は読みませんでした。
以下、一読して気になった歌を引用します。なお、啄木の歌は「三行書き」が基本ですが、〈例〉のように、一行書きに改めて引用します。
〈例〉東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
→東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる
◆「一握の砂」より
◇我を愛する歌
東海の小島の磯の白砂(しらすな)に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる
頬(ほ)につたふ/なみだのごはず/一握の砂を示しし人を忘れず
いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあひだより落つ
たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽(かろ)きに泣きて/三歩あゆまず
なみだなみだ/不思議なるかな/それをもて洗へば心戯(おど)けたくなれり
わが髭の/下向く癖がいきどほろし/このごろ憎き男に似たれば
「さばかりの事に死ぬるや」/「さばかりの事に生くるや」/止せ止せ問答
いつも逢ふ電車の中の小男の/稜(かど)ある眼(まなこ)/このごろ気になる
鏡屋の前に来て/ふと驚きぬ/見すぼらしげに歩むものかも
路傍(みちばた)に犬ながながと□呻(あくび)しぬ/われも真似しぬ/うらやましさに ※□=口+去
剽軽(へうきん)の性(さが)なりし友の死顔(しにがほ)の/青き疲れが/いまも目にあり
こころよき疲れなるかな/息もつかず/仕事をしたる後(のち)のこの疲れ
けものめく顔あり口をあけたてす/とのみ見てゐぬ/人の語るを
浅草の凌雲閣のいただきに/腕組みし日の/長き日記(にき)かな
一度でも我に頭を下げさせし/人みな死ねと/いのりてしこと
はたらけど/はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり/ぢつと手を見る
何がなしに/頭のなかに崖ありて/日毎に土のくづるるごとし
垢じみし袷(あはせ)の襟よ/かなしくも/ふるさとの胡桃焼くるにほひす
誰(たれ)が見ても/われをなつかしくなるごとき/長き手紙を書きたき夕(ゆふべ)
あたらしき心もとめて/名も知らぬ/街など今日もさまよひて来(き)ぬ
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ
人といふ人のこころに/一人づつ囚人がゐて/うめくかなしさ
顔あかめ怒(いか)りしことが/あくる日は/さほどにもなきをさびしがるかな
いらだてる心よ汝(なれ)はかなしかり/いざいざ/すこし□呻(あくび)などせむ ※□=口+去
何事も思ふことなく/いそがしく/暮らせし一日(ひとひ)を忘れじと思ふ
◇煙
病のごと/思郷のこころ湧く日なり/目にあをぞらの煙かなしも
己(おの)が名をほのかに呼びて/涙せし/十四(じふし)の春にかへる術(すべ)なし
教室の窓より遁(に)げて/ただ一人/かの城址(しろあと)に寝に行きしかな
不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心
かなしみといはばいふべき/物の味/我の嘗(な)めしはあまりに早かり
晴れし空仰げばいつも/口笛を吹きたくなりて/吹きてあそびき
その後(のち)に我を捨てし友も/あの頃はともに書(ふみ)読み/ともに遊びき
蘇峯(そほう)の書を我に薦めし友早く/校を退きぬ/まづしさのため
眼を病みて黒き眼鏡(めがね)をかけし頃/その頃よ/一人泣くをおぼえし
わがこころ/けふもひそかに泣かむとす/友みな己(おの)が道をあゆめり
先んじて恋のあまさと/かなしさを知りし我なり/先んじて老ゆ
人ごみの中をわけ来る/わが友の/むかしながらの太き杖かな
わが恋を/はじめて友にうち明けし夜のことなど/思ひ出づる日
ふるさとの訛(なまり)なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく
かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川
石をもて追はるるごとく/ふるさとを出でしかなしみ/消ゆる時なし
やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに
小学の首席を我と争ひし/友のいとなむ/木賃宿かな
ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな
◇秋風のこころよさに
◇忘れがたき人人
わがあとを追ひ来て/知れる人もなき/辺土に住みし母と妻かな
あはれかの/眼鏡の縁をさびしげに光らせてゐし/女(をんな)教師よ
友われに飯を与へき/その友に背きし我の/性(さが)のかなしさ
函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花
ふるさとの/麦のかをりを懐かしむ/女の眉にこころひかれき
子を負ひて/雪の吹き入る停車場に/われを見送りし妻の眉かな
みぞれ降る/石狩の野の汽車に読みし/ツルゲエネフの物語かな
わが去れる後(のち)の噂を/おもひやる旅出(たびで)はかなし/死ににゆくごと
わかれ来てふと瞬けば/ゆくりなく/つめたきものの頬をつたへり
今夜こそ思ふ存分泣いてみむと/泊りし宿屋の/茶のぬるさかな
うたふごと駅の名呼びし/柔和なる/若き駅夫の眼をも忘れず
出しぬけの女の笑ひ/身に沁みき/厨(くりや)に酒の凍る真夜中
小奴(こやつこ)といひし女の/やはらかき/耳朶(みみたぼ)なども忘れがたかり
死にたくはないかと言へば/これ見よと/咽喉(のんど)の痍(きず)を見せし女かな
いかにせしと言へば/あをじろき酔ひざめの/面(おもて)に強ひて笑みをつくりき
かなしきは/かの白玉(しらたま)のごとくなる腕に残せし/キスの痕(あと)かな
火をしたふ虫のごとくに/ともしびの明るき家に/かよひ慣れにき
きしきしと寒さに踏めば板軋(きし)む/かへりの廊下の/不意のくちづけ
その膝に枕しつつも/我がこころ/思ひしはみな我のことなり
吸ふごとに/鼻がぴたりと凍りつく/寒き空気を吸ひたくなりぬ
葡萄色(えびいろ)の/古き手帳にのこりたる/かの会合(あひびき)の時と処(ところ)かな
よごれたる足袋穿く時の/気味わるき思ひに似たる/思出もあり
浪淘沙(らうたうさ)/ながくも声をふるはせて/うたふがごとき旅なりしかな
さりげなく言ひし言葉は/さりげなく君も聴きつらむ/それだけのこと
世の中の明るさのみを吸ふごとき/黒き瞳の/今も目にあり
かの時に言ひそびれたる/大切の言葉は今も/胸にのこれど
真白なるラムプの笠の/瑕(きず)のごと/流離の記憶消しがたきかな
人がいふ/鬢(びん)のほつれのめでたさを/物書く時の君に見たりし
山の子の/山を思ふがごとくにも/かなしき時は君を思へり
君に似し姿を街に見る時の/こころ躍りを/あはれと思へ
死ぬまでに一度会はむと/言ひやらば/君もかすかにうなづくらむか
時として/君を思へば/安かりし心にはかに騒ぐかなしさ
石狩の都の外の/君が家/林檎の花の散りてやあらむ
◇手套を脱ぐ時
つくづくと手をながめつつ/おもひ出(い)でぬ/キスが上手の女なりしが
目を病める/若き女の倚(よ)りかかる/窓にしめやかに春の雨降る
やや長きキスを交(かは)して別れ来(き)し/深夜の街の/遠き火事かな
しめらへる煙草を吸へば/おほよその/わが思ふことも軽(かろ)くしめれり
朝朝の/うがひの料(しろ)の水薬(すゐやく)の/罎(びん)がつめたき秋となりにけり
ゆゑもなく海が見たくて/海に来(き)ぬ/こころ傷(いた)みてたへがたき日に
たひらなる海につかれて/そむけたる/目をかきみだす赤き帯かな
汽車の旅/とある野中の停車場の/夏草の香(か)のなつかしかりき
かの旅の夜汽車の窓に/おもひたる/我がゆくすゑのかなしかりしかな
わかれ来て/燈火(あかり)小暗(をぐら)き夜(よ)の汽車の窓に弄(もてあそ)ぶ/青き林檎よ
いつも来る/この酒肆(さかみせ)のかなしさよ/ゆふ日赤赤と酒に射し入る
思出のかのキスかとも/おどろきぬ/プラタスの葉の散りて触れしを
忘られぬ顔なりしかな/今日街に/捕吏にひかれて笑める男は
二三(ふたみ)こゑ/いまはのきはに微(かす)かにも泣きしといふに/なみだ誘はる
真白なる大根の根の肥ゆる頃/うまれて/やがて死にし児(こ)のあり
おそ秋の空気を/三尺四方ばかり/吸ひてわが児の死にゆきしかな
底知れぬ謎に対(むか)ひてあるごとし/死児(しじ)のひたひに/またも手をやる
かなしくも/夜(よ)明くるまでは残りゐぬ/息きれし児の肌のぬくもり
◇我を愛する歌
東海の小島の磯の白砂(しらすな)に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる
頬(ほ)につたふ/なみだのごはず/一握の砂を示しし人を忘れず
いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあひだより落つ
たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽(かろ)きに泣きて/三歩あゆまず
なみだなみだ/不思議なるかな/それをもて洗へば心戯(おど)けたくなれり
わが髭の/下向く癖がいきどほろし/このごろ憎き男に似たれば
「さばかりの事に死ぬるや」/「さばかりの事に生くるや」/止せ止せ問答
いつも逢ふ電車の中の小男の/稜(かど)ある眼(まなこ)/このごろ気になる
鏡屋の前に来て/ふと驚きぬ/見すぼらしげに歩むものかも
路傍(みちばた)に犬ながながと□呻(あくび)しぬ/われも真似しぬ/うらやましさに ※□=口+去
剽軽(へうきん)の性(さが)なりし友の死顔(しにがほ)の/青き疲れが/いまも目にあり
こころよき疲れなるかな/息もつかず/仕事をしたる後(のち)のこの疲れ
けものめく顔あり口をあけたてす/とのみ見てゐぬ/人の語るを
浅草の凌雲閣のいただきに/腕組みし日の/長き日記(にき)かな
一度でも我に頭を下げさせし/人みな死ねと/いのりてしこと
はたらけど/はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり/ぢつと手を見る
何がなしに/頭のなかに崖ありて/日毎に土のくづるるごとし
垢じみし袷(あはせ)の襟よ/かなしくも/ふるさとの胡桃焼くるにほひす
誰(たれ)が見ても/われをなつかしくなるごとき/長き手紙を書きたき夕(ゆふべ)
あたらしき心もとめて/名も知らぬ/街など今日もさまよひて来(き)ぬ
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ
人といふ人のこころに/一人づつ囚人がゐて/うめくかなしさ
顔あかめ怒(いか)りしことが/あくる日は/さほどにもなきをさびしがるかな
いらだてる心よ汝(なれ)はかなしかり/いざいざ/すこし□呻(あくび)などせむ ※□=口+去
何事も思ふことなく/いそがしく/暮らせし一日(ひとひ)を忘れじと思ふ
◇煙
病のごと/思郷のこころ湧く日なり/目にあをぞらの煙かなしも
己(おの)が名をほのかに呼びて/涙せし/十四(じふし)の春にかへる術(すべ)なし
教室の窓より遁(に)げて/ただ一人/かの城址(しろあと)に寝に行きしかな
不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心
かなしみといはばいふべき/物の味/我の嘗(な)めしはあまりに早かり
晴れし空仰げばいつも/口笛を吹きたくなりて/吹きてあそびき
その後(のち)に我を捨てし友も/あの頃はともに書(ふみ)読み/ともに遊びき
蘇峯(そほう)の書を我に薦めし友早く/校を退きぬ/まづしさのため
眼を病みて黒き眼鏡(めがね)をかけし頃/その頃よ/一人泣くをおぼえし
わがこころ/けふもひそかに泣かむとす/友みな己(おの)が道をあゆめり
先んじて恋のあまさと/かなしさを知りし我なり/先んじて老ゆ
人ごみの中をわけ来る/わが友の/むかしながらの太き杖かな
わが恋を/はじめて友にうち明けし夜のことなど/思ひ出づる日
ふるさとの訛(なまり)なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく
かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川
石をもて追はるるごとく/ふるさとを出でしかなしみ/消ゆる時なし
やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに
小学の首席を我と争ひし/友のいとなむ/木賃宿かな
ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな
◇秋風のこころよさに
◇忘れがたき人人
わがあとを追ひ来て/知れる人もなき/辺土に住みし母と妻かな
あはれかの/眼鏡の縁をさびしげに光らせてゐし/女(をんな)教師よ
友われに飯を与へき/その友に背きし我の/性(さが)のかなしさ
函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花
ふるさとの/麦のかをりを懐かしむ/女の眉にこころひかれき
子を負ひて/雪の吹き入る停車場に/われを見送りし妻の眉かな
みぞれ降る/石狩の野の汽車に読みし/ツルゲエネフの物語かな
わが去れる後(のち)の噂を/おもひやる旅出(たびで)はかなし/死ににゆくごと
わかれ来てふと瞬けば/ゆくりなく/つめたきものの頬をつたへり
今夜こそ思ふ存分泣いてみむと/泊りし宿屋の/茶のぬるさかな
うたふごと駅の名呼びし/柔和なる/若き駅夫の眼をも忘れず
出しぬけの女の笑ひ/身に沁みき/厨(くりや)に酒の凍る真夜中
小奴(こやつこ)といひし女の/やはらかき/耳朶(みみたぼ)なども忘れがたかり
死にたくはないかと言へば/これ見よと/咽喉(のんど)の痍(きず)を見せし女かな
いかにせしと言へば/あをじろき酔ひざめの/面(おもて)に強ひて笑みをつくりき
かなしきは/かの白玉(しらたま)のごとくなる腕に残せし/キスの痕(あと)かな
火をしたふ虫のごとくに/ともしびの明るき家に/かよひ慣れにき
きしきしと寒さに踏めば板軋(きし)む/かへりの廊下の/不意のくちづけ
その膝に枕しつつも/我がこころ/思ひしはみな我のことなり
吸ふごとに/鼻がぴたりと凍りつく/寒き空気を吸ひたくなりぬ
葡萄色(えびいろ)の/古き手帳にのこりたる/かの会合(あひびき)の時と処(ところ)かな
よごれたる足袋穿く時の/気味わるき思ひに似たる/思出もあり
浪淘沙(らうたうさ)/ながくも声をふるはせて/うたふがごとき旅なりしかな
さりげなく言ひし言葉は/さりげなく君も聴きつらむ/それだけのこと
世の中の明るさのみを吸ふごとき/黒き瞳の/今も目にあり
かの時に言ひそびれたる/大切の言葉は今も/胸にのこれど
真白なるラムプの笠の/瑕(きず)のごと/流離の記憶消しがたきかな
人がいふ/鬢(びん)のほつれのめでたさを/物書く時の君に見たりし
山の子の/山を思ふがごとくにも/かなしき時は君を思へり
君に似し姿を街に見る時の/こころ躍りを/あはれと思へ
死ぬまでに一度会はむと/言ひやらば/君もかすかにうなづくらむか
時として/君を思へば/安かりし心にはかに騒ぐかなしさ
石狩の都の外の/君が家/林檎の花の散りてやあらむ
◇手套を脱ぐ時
つくづくと手をながめつつ/おもひ出(い)でぬ/キスが上手の女なりしが
目を病める/若き女の倚(よ)りかかる/窓にしめやかに春の雨降る
やや長きキスを交(かは)して別れ来(き)し/深夜の街の/遠き火事かな
しめらへる煙草を吸へば/おほよその/わが思ふことも軽(かろ)くしめれり
朝朝の/うがひの料(しろ)の水薬(すゐやく)の/罎(びん)がつめたき秋となりにけり
ゆゑもなく海が見たくて/海に来(き)ぬ/こころ傷(いた)みてたへがたき日に
たひらなる海につかれて/そむけたる/目をかきみだす赤き帯かな
汽車の旅/とある野中の停車場の/夏草の香(か)のなつかしかりき
かの旅の夜汽車の窓に/おもひたる/我がゆくすゑのかなしかりしかな
わかれ来て/燈火(あかり)小暗(をぐら)き夜(よ)の汽車の窓に弄(もてあそ)ぶ/青き林檎よ
いつも来る/この酒肆(さかみせ)のかなしさよ/ゆふ日赤赤と酒に射し入る
思出のかのキスかとも/おどろきぬ/プラタスの葉の散りて触れしを
忘られぬ顔なりしかな/今日街に/捕吏にひかれて笑める男は
二三(ふたみ)こゑ/いまはのきはに微(かす)かにも泣きしといふに/なみだ誘はる
真白なる大根の根の肥ゆる頃/うまれて/やがて死にし児(こ)のあり
おそ秋の空気を/三尺四方ばかり/吸ひてわが児の死にゆきしかな
底知れぬ謎に対(むか)ひてあるごとし/死児(しじ)のひたひに/またも手をやる
かなしくも/夜(よ)明くるまでは残りゐぬ/息きれし児の肌のぬくもり
◆「悲しき玩具 ―一握の砂以後―」より
呼吸(いき)すれば、/胸の中(うち)にて鳴る音あり。/凩(こがらし)よりもさびしきその音!
旅を思ふ夫の心!/叱り、泣く、妻子(つまこ)の心!/朝の食卓!
今日もまた酒のめるかな!/酒のめば/胸のむかつく癖を知りつつ。
曠野(あらの)ゆく汽車のごとくに、/このなやみ、/ときどき我の心を通る。
よごれたる手を見る――/ちやうど/この頃(ごろ)の自分の心に対(むか)ふがごとし。
よごれたる手を洗ひし時の/かすかなる満足が/今日の満足なりき。
今日ひよいと山が恋しくて/山に来(き)ぬ。/去年腰掛けし石をさがすかな。
腹の底より欠伸(あくび)もよほし/ながながと欠伸してみぬ、/今年の元日。
石狩の空知郡(ごほり)の/牧場のお嫁さんより送り来(き)し/バタかな
Yという符牒/古(ふる)日記の処処にあり――/Yとはあの人の事なりしかな
百姓の多くは酒をやめしといふ。/もつと困らば、/何をやめるらむ。
人とともに事をはかるに/適せざる/わが性格を思ふ寝覚(ねざめ)かな。
何故かうかとなさけなくなり、/弱い心を何度も叱り、/金かりに行(ゆ)く
あの頃はよく嘘を言ひき。/平気にて嘘を言ひき。/汗が出(い)づるかな。
古(ふる)手紙よ!/あの男とも、五年前は、/かほど親しく交はりしかな。
「石川はふびんな奴だ。」/ときにかう自分で言ひて/かなしみてみる。
重い荷を下(おろ)したやうな、/気持なりき、/この寝台(ねだい)の上に来ていねしとき。
そんならば生命(いのち)が欲しくないのかと、/医者に言はれて、/だまりし心!
何(なに)となく自分をえらい人のやうに/思ひてゐたりき。/子供なりしかな。
ぼんやりとした悲しみが、/夜(よ)となれば、/寝台(ねだい)の上にそつと来て乗る。
氷嚢の下より/まなこ光らせて、/寝られぬ夜は人をにくめる。
胸いたみ、/春の霙(みぞれ)の降る日なり。/薬に噎(む)せて、伏して眼をとづ。
あたらしきサラどの色の/うれしさに/箸とりあげて見は見つれども
氷嚢のとけて温め場、/おのづから目がさめ来(きた)り、/からだ痛める。
いつとなく、記憶に残りぬ――/Fといふ看護婦の手の/つめたさなども。
わが病の/その因(よ)るところ深く且つ遠きを思ふ。/目をとぢて思ふ。
いつとなく我にあゆみ寄り、/手を握り、/またいつとなく去りゆく人々!
友も、妻も、かなしと思ふらし――/病みても猶、/革命のこと口に絶たねば。
かかる目に/すでに幾度(いくたび)会へることぞ!/成るがままに成れと今は思ふなり。
今日もまた胸に痛みあり。/死ぬならば/ふるさとに行(ゆ)きて死なむと思ふ。
いつも、子を/うるさきものと思ひゐし間(あひだ)に、/その子、五歳になれり。
その親にも、/親の親にも似るなかれ――/かく汝(な)が父は思へるぞ、子よ。
かなしきは、/(われもしかりき)/叱れども、打てども泣かぬ児(こ)の心なる。
ひとところ、畳を見つめてありし間(ま)の/その思ひを、/妻よ、語れといふか。
薬のむことを忘れて、/ひさしぶりに、/母に叱られしをうれしと思へる。
放たれし女のごとく、/わが妻の、振舞ふ日なり。/ダリヤを見入る。
胸いたむ日のかなしみも、/かをりよき煙草の如く、/棄てがたきかな。
猫を飼はば、/その猫がまた争ひの種となるらむ。/かなしきわが家(いへ)。
ある日、ふと、やまひを忘れ/牛の啼く真似をしてみぬ――/妻子(つまこ)の留守に
やまひ癒えず、/死なず、/日毎にこゝろのみ険しくなれる七八月(ななやつき)かな。
児(こ)を叱れば、/泣いて、寝入りぬ。/口すこしあけし寝顔にさはりてみるかな。
ひる寝せし児の枕辺に/人形を買ひ来てかざり、/ひとり楽しむ。
椽先(えんさき)にまくら出させて、/ひさしぶりに、/ゆふべの空にしたしめるかな。
庭のそとを白き犬ゆけり。/ふりむきて、/犬を飼はむと妻にはかれる。
呼吸(いき)すれば、/胸の中(うち)にて鳴る音あり。/凩(こがらし)よりもさびしきその音!
旅を思ふ夫の心!/叱り、泣く、妻子(つまこ)の心!/朝の食卓!
今日もまた酒のめるかな!/酒のめば/胸のむかつく癖を知りつつ。
曠野(あらの)ゆく汽車のごとくに、/このなやみ、/ときどき我の心を通る。
よごれたる手を見る――/ちやうど/この頃(ごろ)の自分の心に対(むか)ふがごとし。
よごれたる手を洗ひし時の/かすかなる満足が/今日の満足なりき。
今日ひよいと山が恋しくて/山に来(き)ぬ。/去年腰掛けし石をさがすかな。
腹の底より欠伸(あくび)もよほし/ながながと欠伸してみぬ、/今年の元日。
石狩の空知郡(ごほり)の/牧場のお嫁さんより送り来(き)し/バタかな
Yという符牒/古(ふる)日記の処処にあり――/Yとはあの人の事なりしかな
百姓の多くは酒をやめしといふ。/もつと困らば、/何をやめるらむ。
人とともに事をはかるに/適せざる/わが性格を思ふ寝覚(ねざめ)かな。
何故かうかとなさけなくなり、/弱い心を何度も叱り、/金かりに行(ゆ)く
あの頃はよく嘘を言ひき。/平気にて嘘を言ひき。/汗が出(い)づるかな。
古(ふる)手紙よ!/あの男とも、五年前は、/かほど親しく交はりしかな。
「石川はふびんな奴だ。」/ときにかう自分で言ひて/かなしみてみる。
重い荷を下(おろ)したやうな、/気持なりき、/この寝台(ねだい)の上に来ていねしとき。
そんならば生命(いのち)が欲しくないのかと、/医者に言はれて、/だまりし心!
何(なに)となく自分をえらい人のやうに/思ひてゐたりき。/子供なりしかな。
ぼんやりとした悲しみが、/夜(よ)となれば、/寝台(ねだい)の上にそつと来て乗る。
氷嚢の下より/まなこ光らせて、/寝られぬ夜は人をにくめる。
胸いたみ、/春の霙(みぞれ)の降る日なり。/薬に噎(む)せて、伏して眼をとづ。
あたらしきサラどの色の/うれしさに/箸とりあげて見は見つれども
氷嚢のとけて温め場、/おのづから目がさめ来(きた)り、/からだ痛める。
いつとなく、記憶に残りぬ――/Fといふ看護婦の手の/つめたさなども。
わが病の/その因(よ)るところ深く且つ遠きを思ふ。/目をとぢて思ふ。
いつとなく我にあゆみ寄り、/手を握り、/またいつとなく去りゆく人々!
友も、妻も、かなしと思ふらし――/病みても猶、/革命のこと口に絶たねば。
かかる目に/すでに幾度(いくたび)会へることぞ!/成るがままに成れと今は思ふなり。
今日もまた胸に痛みあり。/死ぬならば/ふるさとに行(ゆ)きて死なむと思ふ。
いつも、子を/うるさきものと思ひゐし間(あひだ)に、/その子、五歳になれり。
その親にも、/親の親にも似るなかれ――/かく汝(な)が父は思へるぞ、子よ。
かなしきは、/(われもしかりき)/叱れども、打てども泣かぬ児(こ)の心なる。
ひとところ、畳を見つめてありし間(ま)の/その思ひを、/妻よ、語れといふか。
薬のむことを忘れて、/ひさしぶりに、/母に叱られしをうれしと思へる。
放たれし女のごとく、/わが妻の、振舞ふ日なり。/ダリヤを見入る。
胸いたむ日のかなしみも、/かをりよき煙草の如く、/棄てがたきかな。
猫を飼はば、/その猫がまた争ひの種となるらむ。/かなしきわが家(いへ)。
ある日、ふと、やまひを忘れ/牛の啼く真似をしてみぬ――/妻子(つまこ)の留守に
やまひ癒えず、/死なず、/日毎にこゝろのみ険しくなれる七八月(ななやつき)かな。
児(こ)を叱れば、/泣いて、寝入りぬ。/口すこしあけし寝顔にさはりてみるかな。
ひる寝せし児の枕辺に/人形を買ひ来てかざり、/ひとり楽しむ。
椽先(えんさき)にまくら出させて、/ひさしぶりに、/ゆふべの空にしたしめるかな。
庭のそとを白き犬ゆけり。/ふりむきて、/犬を飼はむと妻にはかれる。