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春陽堂編『尾崎放哉句集』を読みました。(再)

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 今日、春陽堂編『尾崎放哉句集』(02)を読み終えました。(再)
 この句集には伊丹三樹彦によるモノクロ写真が多数挿入されており、いわゆる〈写俳集〉になっています。
 なお、この句集の構成は以下のようになっており、収録句は「遁世以後」(大正13~15年)に限られています。
◆〈エッセイ〉孤独の恍惚(冨士眞奈美)
◆須磨寺(大正13~14年)
◆小浜常高寺(大正14年)
◆京都(大正14年)
◆小豆島南郷庵(大正14~15年)
◆〈解説〉放哉追跡の夏(伊丹三樹彦)
◆索引

 以下、一読して気になった句を引用します。

《須磨寺》(大正13~14年)
あすは雨らしい青葉の中の堂を閉める
一日物云はず蝶の影さす
雨の日は御灯ともし一人居る
なぎさふりかへる我が足跡も無く
井戸の暗さにわが顔を見出す

鐘ついて去る鐘の余韻の中
柘榴が口あけたたはけた恋だ
赤いたすきをかけて台所がせまい
たつた一人になり切つて夕空
氷店がひよいと出来て白波

茄子もいできてぎしぎし洗ふ
たばこが消えて居る淋しさをなげすてる
友の夏帽が新らしい海に行かうか
人をそしる心をすて豆の皮むく
傘さしかけて心寄りそへる

念彼観音力(ねんぴかんのんりき)風音のまま夜となる
障子しめきつて淋しさをみたす
わが足の格好の古足袋ぬぎすてる
自らをののしり尽きずあふむけに寝る
何か求むる心海へ放つ

めつきり朝がつめたいお堂の戸をあける
小さい火鉢でこの冬を越さうとする
心をまとめる鉛筆とがらす
仏にひまをもらつて洗濯してゐる
ただ風ばかり吹く日の雑念

こんなよい月を一人で見て寝る
竹の葉さやさや人恋しくて居る
寂しいぞ一人五本のゆびを開いて見る
島の女のはだしにはだしでよりそふ
わが顔ぶらさげてあやまりにゆく

針に糸を通しあへず青空を見る
かへす傘又かりてかへる夕べの同じ道である
眼鼻くすぼらしてゐた風呂があつうなる
雀のあたたかさを握るはなしてやる
傘にばりばり雨音さして逢ひに来た

あるものみな着てしまひ風邪ひいてゐる
師走の夜のつめたい寝床が一つあるきり
寒鮒(かんぶな)をこごえた手で数へてくれた
落葉掃けばころころ木の実
鞠がはずんで見えなくなつて暮れてしまつた

かたい梨子(なし)をかぢつて議論してゐる
笑へば泣くやうに見える顔よりほかなかつた
蜜柑を焼いて喰ふ子供と二人で居る
がたびし戸をあけてをそい星空に出る
両手をいれものにして木の実をもらふ

紺の香きつく着て冬空の下働く
椿にしざる陽の窓から白い顔出す
湖の家並ぶ寒の小魚とるいとなみ
ふところの焼芋のあたたかさである
ひげがのびた顔を火鉢の上にのつける

宵祭の提灯ともしてだあれも居らぬ
にくい顔思ひ出し石ころをける
底がぬけた杓で水を呑もうとした
色鉛筆の青い色をひつそりけづつて居る
節分の豆をだまつてたべて居る

花が咲いた顔のお湯からあがつてくる
人を待つ小さな座敷で海が見える
道いつぱいになつて来る牛と出逢つた

《小浜常高寺》(大正14年)
時計が動いて居る寺の荒れてゐる
考へ事をしてゐる田にしが歩いて居る
どろぼう猫の眼と睨みあつてる自分であつた
臍(へそ)に湯をかけて一人夜中の温泉である
海がよく凪いで居る村の呉服屋

うつろの心に眼が二つあいてゐる
淋しいからだから爪がのび出す
ころりと横になる今日が終わつて居る
海がまつ青な昼の床屋にはいる
朝早い道のいぬころ

《京都》(大正14年)
昼寝の足のうらが見えてゐる訪(おとな)ふ
宵のくちなしの花を嗅いで君に見せる

《小豆島南郷庵》(大正14~15年)
いつしかついて来た犬と浜辺に居る
西瓜の青さごろごろと見て庵に入る
山の和尚の酒の友とし丸い月ある
すばらしい乳房だ蚊が居る
海が少し見える小さい窓一つもつ

わが顔があつた小さい鏡買うてもどる
わが庵とし鶏頭がたくさん赤うなつて居る
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
松かさも火にして豆が煮えた
雨の椿に下駄辷(すべ)らしてたづねて来た

壁の新聞の女はいつも泣いて居る
山は海の夕陽をうけてかくすところ無し
一疋の蚤をさがして居る夜中
ぴつたりしめた穴だらけの障子である
あけがたとろりとした時の夢であつたよ

思ひがけもないとこに出た道の秋草
蓮の葉押しわけて出て咲いた花の朝だ
卵子袂(たもと)に一つづつ買うてもどる
蜥蜴の切れた尾がはねてゐる太陽
道を教へてくれる煙管から煙が出てゐる

朝靄(あさもや)豚が出て来る人が出て来る
已(すで)に秋の山山となり机に迫り来
都のはやりうたうたつて島のあめ売り
障子あけて置く海も暮れきる
あらしがすつかり青空にしてしまつた

風にふかれ信心申して居る
月夜風ある一人咳して
入れものが無い両手で受ける
咳をしても一人
菊枯れ尽したる海少し見ゆ

なんと丸い月が出たよ窓
風凪いでより落つる松の葉
針の穴の青空に糸を通す
師走の木魚たたいて居る
松かさそつくり火になつた

今日も夕陽となり座つてゐる
寒ン空シヤツポがほしいな
あすは元日が来る仏とわたくし
夕空見てから夜食の箸とる
窓あけた笑ひ顔だ

春が来たと大きな新聞広告
窓まで這つて来た顔出して青草
肉がやせてくる太い骨である
やせたからだを窓に置き船の汽笛
すつかり病人になつて柳の糸が吹かれゐる

春の山のうしろから烟が出だした



※冨士眞奈美のエッセイ「孤独の恍惚」から、気になった文章を引用します。(一部改編)
 そんな折、作家丸山健二氏の言葉に行き当たった。
 丸山さんはいう。
「芸術家は孤独のエキスパートでなければならない。孤独は真の自由へと導いてくれる唯一の味方だから」
そうなのである。それこそ放哉の望んだ心境、状況であろう。
 さらにいう。
「不安からの逃避や虚構の世界に閉じこもるような犖絽の孤独瓩箸倭瓦違う。必然性のある前向きな孤独こそ価値がある」(2002年8月6日・毎日新聞夕刊)

 放哉の「孤独」の多くの時間は犖絽の孤独瓩任△蝓∈波嫻、小豆島・南郷庵の8ヶ月が狒宛の孤独瓩世辰燭里世隼廚ΑB臉15年2月半ば、師・井泉水への手紙に
「此の土地……冬、寒気、烈風……書いていてもイヤなれ共……放哉、此の庵が気に入ってしまった……」
「一人でいろんな事ヲ考へます」
「何等一ツの執着をも持って無い放哉故……全く、今の『死』は『大往生』であり、『極楽』であります」
と書いている。入院をすすめる井泉水へこれを拒絶し
「放哉は勿論、俗人でありますが、又、同時に『詩人』として死なしてもらひたいと思ふのであります」
と返信している。そしてなくなる1週間前、もはや足腰の自由を失い、やっと呼吸をしている状態で
「(友人にねだり送ってもらった英国タバコ・スリーキャッスルを)大臣気取りで、スパーリスパーリ一人でくゆらして、味をかみしめ、紫煙の行方をなつかしんで居」
たりするのである。 

 4月3日、俳句仲間に
「放哉なるもの、今少し生まれる可からざりし『時代』と『土地』とに生まれ出で、狂、盗、大愚、とのゝしられ遂に夢の如く去らんとす……之もコウ云ふ時代の一個の産物なる可し」
と書き送って、7日午後8時、命を終える。
 命がけで生きたのだ。彼の自己表現の方法は放浪だったのだ。と若死にしていった詩人の魂をしみじみ思い、溜息が出る。放哉の精神は死に向かって昂揚していても、後世の読者である女には、痛々しくせつない感慨が胸いっぱいに広がる。

 同時代の、同じ「層雲」同人作家・山頭火。放浪俳人として人気を二分している感のある山頭火は、当時、熊本味取観音堂に独居していたが、放哉死去の3日後、一鉢一笠の放浪流転の旅に出た。二人は一度も会うことがなかったが、放哉の死の2年後に、山頭火はその墓にもう出ているという。


※伊丹三樹彦の解説「放哉追跡の夏」から、気になった文章を引用します。(一部改編)
須磨寺(大正13~14年)
 尾崎放哉が、その師である荻原井泉水に、作品を高く評価されたのは、須磨寺時代のこと。大正13年6月1日、放哉は、一燈園時代の友、住田蓮車(れんしゃ)の世話によって、同寺の大師堂の堂守となったのだ。
 学歴を捨て、地位を捨て、妻をも捨てた放哉が欲したのは、独居無言の世界であり、句作没頭の境地であった。須磨寺は真言宗の名刹であり、いまも弘法大師の縁日には、市が立ち、善男善女で大いに賑わう。山陽電車の須磨寺駅に下車すると、山手に向かって門前町が続く。仏具屋、花屋、墓石屋、蕎麦屋、土産物屋など参詣衆が出入りするにふさわしい古舗が軒を並べていて、戦前の情緒を今に色濃く残している。ぶらぶら歩いても10分位で山門に着く。これを潜ると桜並木があり、石段があり、その上に本堂を中心とした堂宇が左右に広がる。放哉が寺男としての定座は、本堂の左隣にある大師堂だ。ここで参詣客のために、蝋燭を点て、鉦を打ち、念仏を唱える役割を果たしていたのだ。縁日は別として、普段の日なら、客も疎らである。まして雨の日は、人足が遠のくから、念仏三昧ならぬ句作三昧を身上とする放哉にとっては、それが極楽日となった。

 須磨寺時代の放哉は、月に何十句と作り、そうして井泉水の許に送って、その選を乞うたと思われる。多作者と化した放哉と付き合う井泉水の労もまた、大変だったに違いない。もとはといえば、同じ一高東大俳句会の仲間であった井泉水と放哉だが、この頃には、既に指導者としての力倆と人格を合せもつ井泉水に対して、心から師礼を盡す放哉という風に、両者の関係は好ましい変化を見せていたのだ。

小浜常高寺(大正14年)
 が、放哉にとって折角の須磨寺も、立ち去らねばならぬ事態が起きた。同寺の内紛の為である。暫らく一燈園に戻った上、次に目指したのは若狭の小浜町浅間の常高寺(禅宗)だった。元来、海が大好きである放哉は、常に海が見えるところに住みたがった。先の須磨寺もそうだったが、常高寺とて同様だ。
 小浜は〈海のある奈良〉と呼ばれる位に古寺仏像の多い土地柄で、僕の好きな旅先の一つ。大阪を朝早く発ち、湖西線廻りで敦賀へ。そこで宮津線に乗り換えると1時間位だから、昼前には着いた。古町は蝉時雨の中に、ひっそりとあった。昔ながらの町筋を選びながら西に向って歩く。小さな寺がいくつも並んでいる。その最も外れの高台に、常高寺は在った。階段を登ると、何と目の前に宮津線の鉄路がある。それを越えたところが重層の山門だった。が、無残にも火事で黒焦げの姿をそのまま曝しているではないか。境内に入ると、石畳までが、夏草の茂るにまかせている。斜め前方に、屋根は朽ち、軒は傾いたままの、倒壊寸前といっていいほどの庫裏が見られた。足を踏み込む気にもなれず、僕は呆然と立ち盡すばかりだった。放哉はここで、借金してばかりの出鱈目な住職に追い廻されていたに違いない。全く身につまされた。

 同寺の破産で、放哉はまた京都へ一旦帰る身となったが、小浜時代は幻滅以外の何物でもなかったようだ。が、僕は寺からの帰りに、帆船を描いた風変わりな倉庫をもつ家を発見、それを撮影していたら、傍の人に声を掛けられた。同家の主だった。「冷たいものでも飲んで貰いましょう」と誘われるままに、居間に上ると、写真のこと、放哉のことについても一家言が吐かれた。放哉と山頭火の比較論まで出て、地縁かもしれぬが、放哉の方が、より純粋に俳句と生きた人ではないか、との意見の持主だった。放哉も酒の失敗を時々しているが、まあ、笑って済ませる程度だ。

京都(大正14年)
 さて、若狭から京へ戻り、今熊野の井泉水居に寄寓中の放哉は、師の紹介で小豆島の井上一二を頼って、同島土庄港に辿り着く。幸いにして、土庄町王子山蓮華院西光寺の奥の院南郷庵に入ることが出来、やっと念願の海が見える仏庵の主になれた。

小豆島南郷庵(大正14~15年)
 大正14年8月20日、放哉は41歳の夏だった。本山の西光寺住職は杉本玄々子で、同じ「層雲」の作家でもあった。以後、玄々子と一二の庇護を受けながら、放哉はおのが俳句人生の最後を飾るべき作品の数々を作り続けた。

 僕は土庄の港町をも訪ね、炎天下の撮影に2日間を割いた。南郷庵はとっくに壊され、跡地には低い石塀と句碑と顕彰碑(村尾草樹の解説)があるばかり。門前は、墓地の入口のために六地蔵が並び、手前のポンプ井戸には盆前とあって墓参の人々が次々に現れ、バケツに水を汲んでは立ち去る姿が見られた。放哉の墓碑は、その墓地の奥まったところに立っており、静かに熱く、烈日に灼けていた。法師蝉がまたひとしきり鳴き出した。
伊丹三樹彦(いたみ・みきひこ)
 1920年兵庫県生まれ。日野草城創刊「青玄」を継承。現代俳句協会副会長、日本文芸家協会会員ほか、文化団体多数に関わる。句集に「島嶼派」「樹冠」ほか。一方、写俳運動を提唱し、「双樹の会」代表。「巴里パリ」「隣人ASIAN」「天竺五大」など写俳集の出版も多い。



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