今日、東京・渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムに「国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア」(2018.11.23~2019.1.27)を見に行ってきました。
本当は三菱一号館美術館で開催中の「フィリップス・コレクション展」(2/11まで)を見に行く予定でした。しかし、昨夜「ロマンティック・ロシア」について紹介する番組(BS日テレ〈ぶらぶら美術・博物館〉)を見て、ロシアの自然を描いた絵や有名な「忘れえぬ女」を見たいと思ったので、会期が残り少ないこちらを先に見ることにしました。
本当は三菱一号館美術館で開催中の「フィリップス・コレクション展」(2/11まで)を見に行く予定でした。しかし、昨夜「ロマンティック・ロシア」について紹介する番組(BS日テレ〈ぶらぶら美術・博物館〉)を見て、ロシアの自然を描いた絵や有名な「忘れえぬ女」を見たいと思ったので、会期が残り少ないこちらを先に見ることにしました。
◆見どころ
ふるい立つ当時のロシア美術界
この時代のロシアの文化は、チャイコフスキー、ムソルグスキーといった作曲家や、トルストイ、ドストエフスキーに代表される文豪は日本でよく知られていますが、美術の分野でも多くの才能を輩出しました。その美術界では19世紀後半にクラムスコイら若手画家によって組織された「移動派」グループが、制約の多い官製アカデミズムに反旗を翻し、ありのままの現実を正面から見据えて描くことをめざしていました。移動派の呼称は啓蒙的意図で美術展をロシア各地に移動巡回させたことによります。一方、モスクワ郊外アブラムツェヴォのマーモントフ邸に集まったクズネツォフ、レヴィタン、コローヴィンらの画家たちは、懐古的なロマンティシズムに溢れた作品を多く残しましたが、彼らと移動派には共に祖国に対する愛という共通点が見出せます。(展覧会特設サイトより)
展覧会の構成
第1章 ロマンティックな風景(春・夏・秋・冬)
第2章 ロシアの人々(ロシアの魂・女性たち)
第3章 子供の世界
第4章 都市と生活(都市の風景・日常と祝祭)
この時代のロシアの文化は、チャイコフスキー、ムソルグスキーといった作曲家や、トルストイ、ドストエフスキーに代表される文豪は日本でよく知られていますが、美術の分野でも多くの才能を輩出しました。その美術界では19世紀後半にクラムスコイら若手画家によって組織された「移動派」グループが、制約の多い官製アカデミズムに反旗を翻し、ありのままの現実を正面から見据えて描くことをめざしていました。移動派の呼称は啓蒙的意図で美術展をロシア各地に移動巡回させたことによります。一方、モスクワ郊外アブラムツェヴォのマーモントフ邸に集まったクズネツォフ、レヴィタン、コローヴィンらの画家たちは、懐古的なロマンティシズムに溢れた作品を多く残しましたが、彼らと移動派には共に祖国に対する愛という共通点が見出せます。(展覧会特設サイトより)
展覧会の構成
第1章 ロマンティックな風景(春・夏・秋・冬)
第2章 ロシアの人々(ロシアの魂・女性たち)
第3章 子供の世界
第4章 都市と生活(都市の風景・日常と祝祭)
移動派
正式名称は移動展覧会協会で、アカデミズムという制約を嫌うクラムスコイらにより1870年にサンクトペテルブルクで設立される。民衆の生活を中心に当時の社会生活を写実的な手法で克明に描き出し、その歪みや矛盾を告発するだけでなく、祖国愛をもとに郷土の自然にも目を向けた風景画も盛んに描いた。移動派の展覧会はロシア国内だけでなくキエフやワルシャワにも巡回。地方に暮らす人々を芸術に触れさせる啓蒙的な役割を果たした。活動を終了する1923年まで48回の展覧会を開催している。
アブラムツェヴォ
第実業家サーワ・マーモントフが所有する地所。芸術を積極的に支援したマーモントフは同地の別荘に著名な芸術家を集め、芸術家村を作り上げた。そこにはレーピンやコローヴィン、ワスネツォフ兄弟をはじめとした画家や彫刻家などが集まって作品制作にいそしんでおり、19世紀ロシアの芸術の発展に大きく寄与している。また同地にはロシアの伝統を復興するため、さまざまな工芸工房も併設されていた。
世紀末ロシア
この時期のロシアは近代化が遅れたことにより社会のあちこちにひずみが生じており、きわめて不安定だった。農奴解放令後も身分の違いは残り続け、権威に対する反発が日増しに強くなっていった。そうした社会の状況と反比例するように美術だけでなく文学ではトルストイやツルゲーネフなど、音楽ではチャイコフスキーやラフマニノフなどの諸分野において傑出した才能を多く輩出している。民衆を啓蒙しようとする運動も盛んになり、権威への抵抗、民衆への働きかけという点で、移動派はこの時代の特徴をよく表していた。
(以上、出展目録「ロマンティック・ロシアを読み解くキーワード」より)
正式名称は移動展覧会協会で、アカデミズムという制約を嫌うクラムスコイらにより1870年にサンクトペテルブルクで設立される。民衆の生活を中心に当時の社会生活を写実的な手法で克明に描き出し、その歪みや矛盾を告発するだけでなく、祖国愛をもとに郷土の自然にも目を向けた風景画も盛んに描いた。移動派の展覧会はロシア国内だけでなくキエフやワルシャワにも巡回。地方に暮らす人々を芸術に触れさせる啓蒙的な役割を果たした。活動を終了する1923年まで48回の展覧会を開催している。
アブラムツェヴォ
第実業家サーワ・マーモントフが所有する地所。芸術を積極的に支援したマーモントフは同地の別荘に著名な芸術家を集め、芸術家村を作り上げた。そこにはレーピンやコローヴィン、ワスネツォフ兄弟をはじめとした画家や彫刻家などが集まって作品制作にいそしんでおり、19世紀ロシアの芸術の発展に大きく寄与している。また同地にはロシアの伝統を復興するため、さまざまな工芸工房も併設されていた。
世紀末ロシア
この時期のロシアは近代化が遅れたことにより社会のあちこちにひずみが生じており、きわめて不安定だった。農奴解放令後も身分の違いは残り続け、権威に対する反発が日増しに強くなっていった。そうした社会の状況と反比例するように美術だけでなく文学ではトルストイやツルゲーネフなど、音楽ではチャイコフスキーやラフマニノフなどの諸分野において傑出した才能を多く輩出している。民衆を啓蒙しようとする運動も盛んになり、権威への抵抗、民衆への働きかけという点で、移動派はこの時代の特徴をよく表していた。
(以上、出展目録「ロマンティック・ロシアを読み解くキーワード」より)
◆国立トレチャコフ美術館について
ロシア美術の殿堂、国立トレチャコフ美術館は12世紀の貴重なイコンに始まる約20万点の所蔵作品を誇っています。この膨大なコレクションは、創設者パーヴェル・トレチャコフ(1832-1898)によって基礎が築かれました。モスクワの商家に生まれたトレチャコフは紡績業で多額の財を築き、利益を社会に還元しようと数多くの慈善事業を行いました。
とりわけ生涯をかけて取り組んだのが「ロシアの芸術家によるロシア美術のための美術館」、それもあらゆる人に開かれた公共美術館の設立だったのです。鋭い審美眼の持ち主であったトレチャコフは、当時のアカデミーの潮流のみに囚われず確固とした信念に基づき40年にわたってコレクションを充実させていきます。なかでも彼は熱心に同時代の芸術家の作品を収集、レーピン、クラムスコイ、ペローフなどの芸術家との親交も厚く、彼らの支援にも努めました。トレチャコフは1880年代から自宅の庭に建てたギャラリーでコレクションの一般公開を始め、1892年には亡くなった弟が収集していたヨーロッパ絵画と併せてコレクションをモスクワ市に寄贈しました。彼の死後、住居も展示室へと改装されて、ワスネツォフの設計による古代ロシア建築様式の豪奢なファサードが建てられ、20世紀初頭には現在のような姿になりました。ロシア革命後、国に移管されたトレチャコフ美術館は、その後も美術品の収集を続け、質、量ともに第一級のロシア美術コレクションを世界に誇っています。(展覧会特設サイトより)
とりわけ生涯をかけて取り組んだのが「ロシアの芸術家によるロシア美術のための美術館」、それもあらゆる人に開かれた公共美術館の設立だったのです。鋭い審美眼の持ち主であったトレチャコフは、当時のアカデミーの潮流のみに囚われず確固とした信念に基づき40年にわたってコレクションを充実させていきます。なかでも彼は熱心に同時代の芸術家の作品を収集、レーピン、クラムスコイ、ペローフなどの芸術家との親交も厚く、彼らの支援にも努めました。トレチャコフは1880年代から自宅の庭に建てたギャラリーでコレクションの一般公開を始め、1892年には亡くなった弟が収集していたヨーロッパ絵画と併せてコレクションをモスクワ市に寄贈しました。彼の死後、住居も展示室へと改装されて、ワスネツォフの設計による古代ロシア建築様式の豪奢なファサードが建てられ、20世紀初頭には現在のような姿になりました。ロシア革命後、国に移管されたトレチャコフ美術館は、その後も美術品の収集を続け、質、量ともに第一級のロシア美術コレクションを世界に誇っています。(展覧会特設サイトより)
以下、印象に残った絵をいくつか紹介します。(図録掲載順。写真は展覧会特設サイトより、あるいは図録をコピー。解説は図録より)
◆アブラム・エフィーモヴィチ・アルヒーポフ「帰り道」(1896、35×69cm)
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風景画と風俗画の融合は19世紀末ロシア絵画の重要な特徴の一つである。アルヒーポフは人間と周囲の自然の情緒を優れた技巧で表現した。サイズの小さな作品であっても、画家は自然の壮大な叙事詩的な響きを表現することができた。本作で描かれるのは、仕事を終えた若い御者が四輪馬車で家路につく場面である。彼の周りには平野が広がり、遥か彼方で森の端が灰色にくすんでいるのが見える。弧を描く馬具に一つだけついた小さな鈴が、馬の緩やかな歩みに合わせて規則正しく鳴っている。馬の蹄から舞い上がる砂埃が灰青色の煙を立て、銀色がかった夜明け前の空と溶け合っている。灰色と黄土色の柔らかな色調が、驚くほど繊細な物思わしい憂いの気分を作り出している。(以下略)
※◆イサーク・イリイチ・レヴィタン「森の小花と忘れな草」(1889、49×35cm)
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ロシア絵画の歴史においてレヴィタンは特別な地位を占めている。1880-1890年代、ロシア固有のロマンティックなイメージや世界におけるロシア独自の道が探求されていた時代に、レヴィタンは他の風景画家よりも繊細に、ロシアの自然に特有の美、詩情、叙情性を表現した。チェーホフの妹マリヤ・チェーホワは、レヴィタンは「自然に並々ならぬ愛情を抱いていた。それは愛というよりも、むしろ恋だった」と回想している。
1880年代末にレヴィタンが制作した花のある静物画にも、祖国の自然に対する画家の恋情が込められている。本作は《タンポポ》(1880年代末)とパステル画《矢車草》(1894)と共に、子供の頃から親しんだ素朴な野の花の持つ温和で控えめな美を賛美している。(以下略)
※1880年代末にレヴィタンが制作した花のある静物画にも、祖国の自然に対する画家の恋情が込められている。本作は《タンポポ》(1880年代末)とパステル画《矢車草》(1894)と共に、子供の頃から親しんだ素朴な野の花の持つ温和で控えめな美を賛美している。(以下略)
◆イワン・コンスタンチーノヴィチ・アイヴァゾフスキー「海岸、別れ」(1868、56.5×75cm)
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アイヴァゾフスキーはサンクトペテルブルクの美術アカデミーを金メダルを取得して卒業した後、若冠22歳だった1840年にアカデミーから派遣奨学金を得てイタリアに留学し、美術の勉強を続けた。海、海辺の町、岸辺への愛ゆえに、アイヴァゾフスキーはイタリア中を旅し、とりわけ海辺を頻繁に訪れた。画家はナポリとその近海の小さな島々の風景と出会い、絵のように美しい海を描く機会を得て、ナポリ湾に接するティレニア海に浮かぶイスキア島を繰り返し描いている。画家の関心を惹きつけたのは、滑らかで静かな水面と夕日に照らされた大気が作り出す金色の靄(もや)だった。本作では自然の中のあらゆるものが、幸福な平穏、完全な調和で満たされている。海に出ていく漁師たちと家族の別れという悲しい光景ですら、その平穏を乱しはしない。アイヴァゾフスキーの海景画では、別れ、出会い、再び訪れる別れというテーマがしばしば画題となった。イタリアの美に魅了されたアイヴァゾフスキーは、ロシアに帰国した後も長年にわたって記憶を頼りに愛する異国の風景に立ち戻った。(以下略)
※◆アルカージー・アレクサンドロヴィチ・ルイローフ「静かな湖」(1908、143.3×104.5cm)
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本作には太陽の光と暖かさで満たされた静かな森の一隅が描かれている。劇場の舞台の緞帳のような針葉樹の向こうに、憂いや悲しみのない理想郷的な特別な世界が広がっているのが見える。自然は心和ませる静けさと調和の内にある。釣りの準備をする村人が丹念に漁具を整えている。一瞬の後にはボートは岸から離れ、森の奥にある湖の、揺らぎもしない静かな水面を乱すだろう。色彩の明るい響き、様々な色彩が作り出す平面、自然の様式化された表現によって、写実的な絵画全体に装飾性がもたらされている。(以下略)
※◆イワン・イワーノヴィチ・シーシキン「雨の樫林」(1891、124×203cm)
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本作はシーシキンの才能のいわば満開の時期に描かれた。シーシキンは愛してやまない自然の中で、あらゆるものに身を委ねた。彼は数々の習作、小品を描き、素朴な森の花、細い草、多様な苔といった細部を丹念に描き込んでいる。また、技巧を駆使して大作を描くこともあった。そうした大作では、彼が愛した森の自然の力強さと美を表現した。シーシキンは太陽の輝かない日でさえ、ロシアの風景の美を見出し、曇りや雨の日の自然の状態にも心惹かれた。画家は本作で、おそらく何日かにわたって降り続いている雨がもたらす湿った空気の魅力を発見している。霧雨の中で、遠い木々や、ぬかるんだ雨道を行く人々の輪郭はかすんでいる。道往く人はもう水たまりに注意を向けず、その中を歩いていく。だがこのような状態でも、自然は独自の美しさ、魅力を具えている。シーシキンは本作で、人間のかすかに哀しげな詩的で物憂げな状態とそれに呼応するような自然の状態を表現している。
ロシアでは長雨の陰鬱な日が続くことが多い。こうした状況はロシア文学でも多くの詩に、またシーシキンの偉大な同時代人であるチャイコフスキーやラフマニノフの曲にも影響している。
※ロシアでは長雨の陰鬱な日が続くことが多い。こうした状況はロシア文学でも多くの詩に、またシーシキンの偉大な同時代人であるチャイコフスキーやラフマニノフの曲にも影響している。
◆イワン・イワーノヴィチ・シーシキン「樫の木、夕方」(1887、44.5×63.5cm)
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シーシキンは、ロシアの自然の偉大な描き手であり、その作品において、巧みな技術と愛によって、母国の大地の果てしない広がり、人を寄せつけぬ森の深奥を表現し、草木の一本一本、老木の粗い樹皮について物語った。力強い樫の森は、シーシキンがもっとも好んだテーマの一つだった。彼は素晴らしい樫の林を描いた大作を何点か制作しており、ピョートル大帝がフィンランド湾の岸辺に植えた樫の林も描いている。この《樫の木、夕方》は、《樫林》(1887)の習作の一つである。
シーシキンは、「風景画家の重要な仕事は自然を熱心に学ぶことである。風景を写生した作品は空想を交えてはならない」と確信していた。自然に対する画家のこのような態度には、植物学者のような学者たちに通じるものがあるが、シーシキンの生きた時代が世界の理性的な認識を追求する時代だったことを思えば、シーシキンはまさに時代の特徴を具えた人物だったと言える。またシーシキンは、習作においても全体的な感覚を表現することに長けており、だからこそ彼の習作は独立した作品として迎えられている。(以下略)
※シーシキンは、「風景画家の重要な仕事は自然を熱心に学ぶことである。風景を写生した作品は空想を交えてはならない」と確信していた。自然に対する画家のこのような態度には、植物学者のような学者たちに通じるものがあるが、シーシキンの生きた時代が世界の理性的な認識を追求する時代だったことを思えば、シーシキンはまさに時代の特徴を具えた人物だったと言える。またシーシキンは、習作においても全体的な感覚を表現することに長けており、だからこそ彼の習作は独立した作品として迎えられている。(以下略)
◆イワン・イワーノヴィチ・シーシキン「正午、モスクワ郊外」(1869、111.2×80.4cm)
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1866年夏、シーシキンは長年の友人で風景画家であるカーメネフと共にモスクワ郊外ブラトツェヴォの古い荘園に近い地に滞在した。シーシキンはいつものように「情熱的に」制作し、毎日、数点の風景画の習作を制作した。この夏の仕事の最も重要な成果が渾身の大作《午後、モスクワ郊外》である。シーシキンは本作をもとに3年後に別の作品(《林、正午》1872)も制作している。本作は光、太陽で満たされ、巨匠の多数の作品のテーマである「心を癒やす」広大な空間を表現している。本作を機として、母国、祖国の自然という主題がシーシキンの創作に新たに加わり、後年も多数の作品でこの主題に取り組むことになった。
遥か彼方まで続く広がり、なだらかな丘、林、静かな小川、どこまでも高い空、あちこちに見える村の聖堂の鐘楼――こうした眺めを味わうことのできる慎ましくも美しいモスクワ郊外の風景は、ロシアの自然のイメージそのものである。小村ブラトツェヴォの近郊も例外ではない。モスクワの北部に位置し、小さな川の岸辺に広がるブラトツェヴォは、すでに14世紀にはモスクワ近郊の裕福な貴族たちに注目され、村の持ち主は何度も変わった。現在ではブラトツェヴォはモスクワの一部となったが、18世紀に建てられた二階建ての荘園の建物や、荘園からほど近い17世紀の聖堂は、数世紀を経て今も残っている。
今ではブラトツェヴォ近郊に数百年前の風景の名残を見出すことは難しい。しかしシーシキンの作品はモスクワ郊外の素朴な魅力を今日まで伝えている。ライ麦の実る畑や太陽に内側から照らされているかのような銀色がかった雲の浮かぶ高い空が、この村の眺めに厳かな美を与えている。村の道に沿って農家の人々が歩き、丘の間には煙を上げている人家や教会堂がかすかに見える。それらは自然の中で暮らす人間の存在を表す印である。この風景画からは、四季が巡るように永遠に繰り返される地上の生の平穏と安定が伝わってくる。本作に漂う飾り気のない明るい詩的な情緒はパーヴェル・トレチャコフを魅了し、トレチャコフが購入した最初のシーシキン作品となった。
※遥か彼方まで続く広がり、なだらかな丘、林、静かな小川、どこまでも高い空、あちこちに見える村の聖堂の鐘楼――こうした眺めを味わうことのできる慎ましくも美しいモスクワ郊外の風景は、ロシアの自然のイメージそのものである。小村ブラトツェヴォの近郊も例外ではない。モスクワの北部に位置し、小さな川の岸辺に広がるブラトツェヴォは、すでに14世紀にはモスクワ近郊の裕福な貴族たちに注目され、村の持ち主は何度も変わった。現在ではブラトツェヴォはモスクワの一部となったが、18世紀に建てられた二階建ての荘園の建物や、荘園からほど近い17世紀の聖堂は、数世紀を経て今も残っている。
今ではブラトツェヴォ近郊に数百年前の風景の名残を見出すことは難しい。しかしシーシキンの作品はモスクワ郊外の素朴な魅力を今日まで伝えている。ライ麦の実る畑や太陽に内側から照らされているかのような銀色がかった雲の浮かぶ高い空が、この村の眺めに厳かな美を与えている。村の道に沿って農家の人々が歩き、丘の間には煙を上げている人家や教会堂がかすかに見える。それらは自然の中で暮らす人間の存在を表す印である。この風景画からは、四季が巡るように永遠に繰り返される地上の生の平穏と安定が伝わってくる。本作に漂う飾り気のない明るい詩的な情緒はパーヴェル・トレチャコフを魅了し、トレチャコフが購入した最初のシーシキン作品となった。
◆イワン・ニコラエヴィチ・クラムスコイ「花瓶のフロックス」(1884、64×56.2cm)
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クラムスコイは画家、美術理論家、美術批評家、社会活動家、そして何よりも、19世紀後半に花開いたロシア・リアリズム美術の代表的人物として活動した。クラムスコイは、ロシア美術の発展に独自に貢献するために団結した画家たちのグループである移動展覧会協会のリーダーであり、思想面の指導者だった。彼は自分の創造力と才能の大部分を肖像画に捧げたが、花のある静物画を一点のみ制作している。驚くべき自由奔放さと技巧によって、フロックスのユニークな「肖像画」を描き上げたのである。白、薔薇色、真紅。桜色、ライラック色、すみれ色の鮮やかな色彩から成る豊かな色調が、葉の瑞々しい緑や青い艶やかな花瓶と調和し、喜ばしいと同時に厳かな雰囲気を醸し出している。丈夫な庭の植物の一つで、芳香を漂わせるフロックスの花束は、画家の絵筆によって、沈みゆく太陽の優しい照り返しに彩られた軽やかな花の「雲」に変身したかのようである。
※◆セルゲイ・アルセーニエヴィチ・ヴィノグラードフ「秋の荘園で」(1907、63×80.7cm)
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ヴィノグラードフが作品に描いた場所の中でも、最も好んだ場所の一つが、トゥーラ県のゴロヴィンカの荘園である。この荘園は芸術のパトロンとして知られたサーワ・マーモントフの息子、フセヴォロト・マーモントフの領地だった。ヴィノグラードフはマーモントフ家と親しく、夏も冬もしばしば彼らの荘園に滞在した。(中略)
本作では、画家は落葉しはじめた木々の細く曲がった幹の間から見たゴロヴィンカの邸宅を、庭園の側から描いている。画家は優れた技量を駆使して、明るく鮮やかな色を全体の色調と調和させている。ここでは自然が、調和の中心、喜びの源泉として描かれている。この風景画は人間の心と自然の共鳴を表現した19世紀ロシアの風景詩と深く呼応している。
※本作では、画家は落葉しはじめた木々の細く曲がった幹の間から見たゴロヴィンカの邸宅を、庭園の側から描いている。画家は優れた技量を駆使して、明るく鮮やかな色を全体の色調と調和させている。ここでは自然が、調和の中心、喜びの源泉として描かれている。この風景画は人間の心と自然の共鳴を表現した19世紀ロシアの風景詩と深く呼応している。
◆イワン・シルイチ・ゴリュシュキン=ソロコプドフ「落葉」(1900年代、63×47cm)
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レーピンの弟子であるゴリュシュキン=ソロコプドフは次のように書いている――「私はまだ美術アカデミーで学んでいた頃から、ロシアの歴史と古いルーシの風習に関心を持ちはじめた。自然に取り巻かれたロシアの生活の美を感じさせるあらゆるモチーフに興味を惹かれた」。ゴリュシュキン=ソロコプドフは肖像画と歴史画の巨匠であり、才能ある教育者でもあった。20世紀初頭、彼の芸術は広く知られ、油彩や素描の複製が著名な雑誌に掲載されたほか、副業として「民衆的な様式」の広告ポスターの制作にも取り組んだ。彼の鮮やかで華麗な古き良き時代を描いたロマンティックな作品に人々は魅了された。本作では肖像と風景画が一体化しており、秋を詩的に擬人化した象徴的なイメージを創り出している。この肖像画には、モダニズム美術の特徴である輪郭線への愛着を見て取ることができる。明確なコントラストと共に描かれている背景は、柔弱な横顔の青ざめた色合いを強調している。(以下略)
※◆ワシーリー・ニコラエヴィチ・バクシェーエフ「樹氷」(1900、67×89.5cm)
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パクシェーエフは人々の日常を描いた風俗画の巨匠であると同時に、優れた風景画家である。彼は独特の柔和さと叙情性を特徴とするモスクワ派の巨匠であっただけでなく、「レヴィタンの後継者」の一人でもあり、ロシアの自然に対するレヴィタン特有の詩的理解を受け継いでいた。画家で美術史家でもあったアレクサンドル・ベヌアの言葉によれば、モスクワ派の画家たちは「ロシアの自然、ロシアの生活を描くだけでなく、それらを理解し、愛し、心動かされていた」。そして冬の風景は、ロシアの風景をめぐる思想を深めるための格好の画題となった。
パクシェーエフは樹氷に包まれた木々というモチーフを繰り返し描き、冬の太陽の日差しに照らされた輝くほど白い雪の美を愛をこめて表現した。モチーフの魅力と単純だが工夫を凝らされた構図に、風景画家バクシェーエフの個性が現れている。森はまるでおとぎ話の魔法の森のようであり、それを観る者は脆い結晶で織り上げられた白い雪の美が壊れないようにと願う。祝祭の衣装をまとった森は、魔法をかけられ凍りついたかのようだが、もし突風が吹けば、次に雪が降る時まで森は姿を変えてしまう。自然はたえず動き、変化し続けるが、いつも予期せぬ新しい魅力を秘めている。(以下略)
※パクシェーエフは樹氷に包まれた木々というモチーフを繰り返し描き、冬の太陽の日差しに照らされた輝くほど白い雪の美を愛をこめて表現した。モチーフの魅力と単純だが工夫を凝らされた構図に、風景画家バクシェーエフの個性が現れている。森はまるでおとぎ話の魔法の森のようであり、それを観る者は脆い結晶で織り上げられた白い雪の美が壊れないようにと願う。祝祭の衣装をまとった森は、魔法をかけられ凍りついたかのようだが、もし突風が吹けば、次に雪が降る時まで森は姿を変えてしまう。自然はたえず動き、変化し続けるが、いつも予期せぬ新しい魅力を秘めている。(以下略)
◆イリヤ・エフィーモヴィチ・レーピン「画家イワン・クラムスコイの肖像」(1882、96.5×75cm)
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クラムスコイは19世紀後半の最も偉大なロシアの画家の一人であるだけでなく、深遠な思想家、美術批評家、非凡な教育者としての才能を兼ね備えていた。モデルの心理を表現する肖像画の巨匠だったクラムスコイは、作家レフ・トルストイの最初の肖像画(1873)を描き、ロシア美術の至宝の一つである《荒野のキリスト》(1872)、著名な《忘れえぬ女》(1883)を生み出した。(中略)
本作はクラムスコイの外面だけでなく、人格、性格の本質をも明確に伝えている。レーピンはクラムスコイとの最初の出会いについて、回想記でこう記している――「なんという人だ! なんという目だ! 小さい目で、落ち窪んだ眼窩の深みにあるというのに、はっきり目立っている。灰色の目が輝いている。なんて真面目な顔なのだろう」。レーピンは回想記に、自分の師クラムスコイの「尽きせぬエネルギー」について書き、クラムスコイを「ロシアの偉大な画家」と呼び、画家としても市民としても「国家的記念碑」に値する人物だと記している。
※本作はクラムスコイの外面だけでなく、人格、性格の本質をも明確に伝えている。レーピンはクラムスコイとの最初の出会いについて、回想記でこう記している――「なんという人だ! なんという目だ! 小さい目で、落ち窪んだ眼窩の深みにあるというのに、はっきり目立っている。灰色の目が輝いている。なんて真面目な顔なのだろう」。レーピンは回想記に、自分の師クラムスコイの「尽きせぬエネルギー」について書き、クラムスコイを「ロシアの偉大な画家」と呼び、画家としても市民としても「国家的記念碑」に値する人物だと記している。
◆イワン・ニコラエヴィチ・クラムスコイ「月明かりの夜」(1880、178.8×135.2cm)
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本作はかつて夕方から夜にかけて戸外で演奏された吹奏楽曲である夜想曲(ノクターン)に喩えることができる。この作品は夜想曲のように、観る者の心を高揚させ、思い出を甦らせ、夢想へと誘う。
白いドレスを纏った若い女性が独り、古い庭園で老木の傍らのベンチに腰掛けている。彼女の姿は月夜の詩情、その静けさや神秘と調和し、一体化している。誰かを待っているのか、あるいはただ物思いや回想に耽っているのか。彼女がこの問いに答えることは永遠にない。人間の心の中にあって時には自然界にも現れる語り尽くされないもの、空想、夢、詩。この作品を描きイメージを創り出した画家にとって、また鑑賞者にとって、彼女はそれらの化身であり続ける。(中略)
本作の女性像を描くにあたって最初にモデルとなったのは、後に著名な科学者ドミトリー・メンデレーエフの妻となった美術アカデミーの若い生徒アンナ・ポポーワだった。しかし作品が完成に近づいた時、絵の入手を決意したトレチャコフ美術館創設者の弟セルゲイ・トレチャコフは画家に絵の中の女性に自分の妻の面影を与えてほしいと依頼した。
本作はこうして生まれたユニークな肖像画であると同時に、厳かな夜の静寂と密やかに「響き」「流れる」月の光を表現した「雰囲気を伝える絵画」でもある。
※ドミトリー・メンデレーエフ:元素周期表を作成したロシアの化学者白いドレスを纏った若い女性が独り、古い庭園で老木の傍らのベンチに腰掛けている。彼女の姿は月夜の詩情、その静けさや神秘と調和し、一体化している。誰かを待っているのか、あるいはただ物思いや回想に耽っているのか。彼女がこの問いに答えることは永遠にない。人間の心の中にあって時には自然界にも現れる語り尽くされないもの、空想、夢、詩。この作品を描きイメージを創り出した画家にとって、また鑑賞者にとって、彼女はそれらの化身であり続ける。(中略)
本作の女性像を描くにあたって最初にモデルとなったのは、後に著名な科学者ドミトリー・メンデレーエフの妻となった美術アカデミーの若い生徒アンナ・ポポーワだった。しかし作品が完成に近づいた時、絵の入手を決意したトレチャコフ美術館創設者の弟セルゲイ・トレチャコフは画家に絵の中の女性に自分の妻の面影を与えてほしいと依頼した。
本作はこうして生まれたユニークな肖像画であると同時に、厳かな夜の静寂と密やかに「響き」「流れる」月の光を表現した「雰囲気を伝える絵画」でもある。
◆イワン・ニコラエヴィチ・クラムスコイ「忘れえぬ女(ひと)」(1883、76.1×102.3cm)
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《忘れえぬ女》は、19世紀ロシア美術における最も有名で人気のある作品の一つである。
本作品には決して最後まで解き明かされることのない秘密が驚くべき方法で託されている。原題《見知らぬ女(ひと)》自体も秘密めき、謎めいているため、1883年に展示されたその時から、この絵は様々な伝説に包まれてきた。
「半ばジプシー風の威厳のある浅黒い美人」と当時の美術批評家が評したこの若く麗しい女性のモデルが誰であるか、人々は思い思いに想像し、皇帝の宮廷に近い人物、あるいはトルストイの小説の主人公アンナ・カレーニナ、フョードル・ドストエフスキーの小説『白痴』の登場人物ナスターシャ・フィリッポヴナなど様々な説が生まれた。その後、20世紀初頭には、《忘れえぬ女》の中にアレクサンドル・ブロークの詩における「麗しの淑女」としての「見知らぬ女」の風貌を見出そうとする風潮が生まれた。ここで挙げた文学作品のヒロインは皆、その行動や生き方によって、ブルジョア社会の道徳的な決まり事に挑戦した女性だった。クラムスコイの《忘れえぬ女》は、それらの文学作品のヒロインと共通する部分があるが、決して特定の文学作品の挿絵でもなければ原型でもない。独自の自律した存在なのである。
冬の冷たい靄(もや)に包まれたサンクトペテルブルクのネフスキー大通りを、幌を上げた馬車に乗って、若く美しく、洗練された衣装を纏った婦人が通りかかる。彼女の物腰、首のかしげ方、睫毛でやや隠された目からのぞく眼差し――それらすべては、振る舞いを規定する慣習や厳しい規則に縛られた固苦しいサンクトペテルブルクに対する挑戦と対立である。彼女は上流社会、貴族社会には属していない日陰の世界の婦人である。クラムスコイの《忘れえぬ女》はフランスの著名な作家アレクサンドル・デュマの有名な小説『椿姫』のユニークなロシア版である。
しかし、この作品はそれほど一義的な作品ではない。クラムスコイは疑いもなく、自分のヒロインに見惚れている。画家は彼女のあまり白くない顔に浮かぶ暖かい薔薇色、豊かな睫毛、黒い瞳のビロードのような輝きを描くことに喜びを見出しており、卓越した技術を駆使して、帽子を飾る軽やかな駝鳥の羽、馬車のラッカー塗り木材、少し粗い革の座面を描いている。華麗で美しい写実的絵画のみずみずしさと優美さが、この作品に結実している。クラムスコイは自分の描いた《忘れえぬ女》の誘い掛けるような美と、絵の細部における真実味溢れる描写に魅了されているが、それと同時に、ある問いを投げかけている――外面の美と、内面の美、道徳的美の境界はどこにあるのか? この問題を自分に問いかけたのはクラムスコイだけではなかった。社会における女性の解放、平等が本格的に検討されはじめた当時、この問題はロシア文学、哲学、社会思想の大きな論点となった。こうした論争においてクラムスコイが属していたロシアの民主的な芸術流派は、物質的な美、肉体的な美ではなく、人間の心の美を支持した。厳格で清教徒的ですらあるクラムスコイの芸術において、《忘れえぬ女》は彼が感覚的な美の魔力に身を委ねたおそらく唯一の作品なのである。
※本作品には決して最後まで解き明かされることのない秘密が驚くべき方法で託されている。原題《見知らぬ女(ひと)》自体も秘密めき、謎めいているため、1883年に展示されたその時から、この絵は様々な伝説に包まれてきた。
「半ばジプシー風の威厳のある浅黒い美人」と当時の美術批評家が評したこの若く麗しい女性のモデルが誰であるか、人々は思い思いに想像し、皇帝の宮廷に近い人物、あるいはトルストイの小説の主人公アンナ・カレーニナ、フョードル・ドストエフスキーの小説『白痴』の登場人物ナスターシャ・フィリッポヴナなど様々な説が生まれた。その後、20世紀初頭には、《忘れえぬ女》の中にアレクサンドル・ブロークの詩における「麗しの淑女」としての「見知らぬ女」の風貌を見出そうとする風潮が生まれた。ここで挙げた文学作品のヒロインは皆、その行動や生き方によって、ブルジョア社会の道徳的な決まり事に挑戦した女性だった。クラムスコイの《忘れえぬ女》は、それらの文学作品のヒロインと共通する部分があるが、決して特定の文学作品の挿絵でもなければ原型でもない。独自の自律した存在なのである。
冬の冷たい靄(もや)に包まれたサンクトペテルブルクのネフスキー大通りを、幌を上げた馬車に乗って、若く美しく、洗練された衣装を纏った婦人が通りかかる。彼女の物腰、首のかしげ方、睫毛でやや隠された目からのぞく眼差し――それらすべては、振る舞いを規定する慣習や厳しい規則に縛られた固苦しいサンクトペテルブルクに対する挑戦と対立である。彼女は上流社会、貴族社会には属していない日陰の世界の婦人である。クラムスコイの《忘れえぬ女》はフランスの著名な作家アレクサンドル・デュマの有名な小説『椿姫』のユニークなロシア版である。
しかし、この作品はそれほど一義的な作品ではない。クラムスコイは疑いもなく、自分のヒロインに見惚れている。画家は彼女のあまり白くない顔に浮かぶ暖かい薔薇色、豊かな睫毛、黒い瞳のビロードのような輝きを描くことに喜びを見出しており、卓越した技術を駆使して、帽子を飾る軽やかな駝鳥の羽、馬車のラッカー塗り木材、少し粗い革の座面を描いている。華麗で美しい写実的絵画のみずみずしさと優美さが、この作品に結実している。クラムスコイは自分の描いた《忘れえぬ女》の誘い掛けるような美と、絵の細部における真実味溢れる描写に魅了されているが、それと同時に、ある問いを投げかけている――外面の美と、内面の美、道徳的美の境界はどこにあるのか? この問題を自分に問いかけたのはクラムスコイだけではなかった。社会における女性の解放、平等が本格的に検討されはじめた当時、この問題はロシア文学、哲学、社会思想の大きな論点となった。こうした論争においてクラムスコイが属していたロシアの民主的な芸術流派は、物質的な美、肉体的な美ではなく、人間の心の美を支持した。厳格で清教徒的ですらあるクラムスコイの芸術において、《忘れえぬ女》は彼が感覚的な美の魔力に身を委ねたおそらく唯一の作品なのである。
◆フィリップ・アンドレーエヴィチ・マリャーヴィン「本を手に」(1895、108×72.5cm)
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本作で描かれているのは画家の妹アレクサンドラ・マリャーヴィナ(1875-1903)である。
マリャーヴィンは貧しい農家に生まれ、一時期はアトス山で見習い修道士としてイコン工房で働いていた。やがて、彫刻家ウラジーミル・ベクレミシェフの助言と援助を受けて美術アカデミーに入学し、在学中に本作を制作した。マリャーヴィンと同窓だった画家アンナ・オストロウーモワ=レーベジェワは次のように回想している――「彼(マリャーヴィン)は美術アカデミーの学生たちの中でもひときわ成功を収め、1年目の夏が終わった頃には、自分の母、読書する妹、父(中略)を描いた秀逸な習作を持参した。それらの作品は私にも仲間にも強い感銘を与えた・・・・彼は新しい清涼な空気をもたらした」。本作は非常に大胆な構図、モデルである女性の動きと頭部の力溢れる描写によって優れた作品となっているだけでなく、身近な家族への画家の愛を生き生きと伝える肖像画としても魅力的である。
※マリャーヴィンは貧しい農家に生まれ、一時期はアトス山で見習い修道士としてイコン工房で働いていた。やがて、彫刻家ウラジーミル・ベクレミシェフの助言と援助を受けて美術アカデミーに入学し、在学中に本作を制作した。マリャーヴィンと同窓だった画家アンナ・オストロウーモワ=レーベジェワは次のように回想している――「彼(マリャーヴィン)は美術アカデミーの学生たちの中でもひときわ成功を収め、1年目の夏が終わった頃には、自分の母、読書する妹、父(中略)を描いた秀逸な習作を持参した。それらの作品は私にも仲間にも強い感銘を与えた・・・・彼は新しい清涼な空気をもたらした」。本作は非常に大胆な構図、モデルである女性の動きと頭部の力溢れる描写によって優れた作品となっているだけでなく、身近な家族への画家の愛を生き生きと伝える肖像画としても魅力的である。
◆ニコライ・ニコラエヴィチ・グリツェンコ「イワン大帝の鐘楼からのモスクワの眺望」(1896、72×54cm)
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モスクワのクレムリンのパノラマは、何世紀にもわたってその美と威容によって、詩人、イコン画家、画家たちを魅了し、彼らはこのモスクワの要塞(クレムリン)に数々の美しい作品を捧げてきた。威厳ある要塞の壁で囲まれた大小の聖堂のような壮大な建築群が、都市の象徴、「首都の心臓」と考えられてきたのは当然のことだった。(中略)
本作ではクレムリンの白い石の壁や大聖堂の荘厳さ、陽を浴びて輝く金色の丸屋根がグリツェンコの筆によって不滅なものとなり、「母なるモスクワ」への真の畏敬に満ちた堂々たる讃歌として描かれている。要塞の壁の二つの塔の間には、常にモスクワの大公たちの納骨堂として機能してきたアルハンゲリスキー大聖堂がそびえている。その左に位置しているのが、皇族たちの祈りの場であったブラゴヴェシェンスキー大聖堂である。
グリツェンコの本作では、モスクワのクレムリンの威容と精神的な美が、ロシアの地の栄光と力を讃える美しい記念碑として描かれている。本作に描かれた大聖堂やその他の建築、古く美しい事物は、「最古の首都」と呼ばれたロシアの古の首都における様々な出来事や伝説の記憶を伝えているかのようである。
※本作ではクレムリンの白い石の壁や大聖堂の荘厳さ、陽を浴びて輝く金色の丸屋根がグリツェンコの筆によって不滅なものとなり、「母なるモスクワ」への真の畏敬に満ちた堂々たる讃歌として描かれている。要塞の壁の二つの塔の間には、常にモスクワの大公たちの納骨堂として機能してきたアルハンゲリスキー大聖堂がそびえている。その左に位置しているのが、皇族たちの祈りの場であったブラゴヴェシェンスキー大聖堂である。
グリツェンコの本作では、モスクワのクレムリンの威容と精神的な美が、ロシアの地の栄光と力を讃える美しい記念碑として描かれている。本作に描かれた大聖堂やその他の建築、古く美しい事物は、「最古の首都」と呼ばれたロシアの古の首都における様々な出来事や伝説の記憶を伝えているかのようである。
◆コンスタンチン・アレクセーエヴィチ・コローヴィン「小舟にて」(1888、53.3×42.5cm)
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コローヴィンは印象主義の代表的画家であり、その名はロシアにおける印象主義の誕生とも深く結びついている。コローヴィンにとって1880年代は芸術の道を探求する時期となった。画家としての出発期に強い影響を受けた移動派のリアリズムの痕跡をまだ残しながらも、80年代のコローヴィンはすでに、光、空気、色が絵画の重要な「主人公」となる外光主義や印象主義的傾向に関心を持ち、新しい美術の可能性を感じていた。
1888年夏、コローヴィンは自分の師であるポレーノフのモスクワ郊外のジューコフカにある別荘に滞在した。コローヴィンにとってポレーノフこそが、弟子たちに絵画の多様で多大な可能性を初めて示し、フランス印象派の画家たちについて語った先駆者だった。コローヴィンは後に、ポレーノフは古い学校に「新鮮な流れ」を持ち込み、「心という建物の窓を春のように開放してくれた」と回想している。1888年にジューコフカで制作した素晴らしい技術による習作の数々は、印象主義の画家としてのコローヴィンの成長の重要な発展段階を示している。しかしポレーノフはコローヴィンが習作に満足せずに完成作品を描くことを要求し、コローヴィンは師の助言に従って本作に取り掛かった。画家のマリヤ・ヤクーンチコワとヴェーラ・ヤクーンチコワ姉妹とポレーノフが本作のモデルを務めたが、独創性に富んだ若い画家は本作の男性に自分自身の風貌を与えている。
また、その時コローヴィンは彼自身が語っているように、愛についての絵画を描きたいと願っていた。本作を観る者が目にするのは、ロマンティックな逢引のシーンである。木々の枝はまるでアーチのようにクリャジマ川の上に掛かり、葉の上では陽の光がきらめき、ゆるやかな水の流れに反映している。葉の帳(とばり)の下では、小舟で青年が本を朗読し、若い娘がそれに耳を傾けている。本作の主人公として情緒を作り上げているのは、夏の終わりの柔らかな光である。生い茂った葉を通る抜けて、光は娘の優しい顔を照らし、明るい色のブラウスを様々な色に染め上げている。二人きりで小舟で舟遊びをするこの光景に、画家は一体化する心という詩的なイメージを与え、理想郷のような別荘生活に流れる平和で穏やかな空気を表現している。
※1888年夏、コローヴィンは自分の師であるポレーノフのモスクワ郊外のジューコフカにある別荘に滞在した。コローヴィンにとってポレーノフこそが、弟子たちに絵画の多様で多大な可能性を初めて示し、フランス印象派の画家たちについて語った先駆者だった。コローヴィンは後に、ポレーノフは古い学校に「新鮮な流れ」を持ち込み、「心という建物の窓を春のように開放してくれた」と回想している。1888年にジューコフカで制作した素晴らしい技術による習作の数々は、印象主義の画家としてのコローヴィンの成長の重要な発展段階を示している。しかしポレーノフはコローヴィンが習作に満足せずに完成作品を描くことを要求し、コローヴィンは師の助言に従って本作に取り掛かった。画家のマリヤ・ヤクーンチコワとヴェーラ・ヤクーンチコワ姉妹とポレーノフが本作のモデルを務めたが、独創性に富んだ若い画家は本作の男性に自分自身の風貌を与えている。
また、その時コローヴィンは彼自身が語っているように、愛についての絵画を描きたいと願っていた。本作を観る者が目にするのは、ロマンティックな逢引のシーンである。木々の枝はまるでアーチのようにクリャジマ川の上に掛かり、葉の上では陽の光がきらめき、ゆるやかな水の流れに反映している。葉の帳(とばり)の下では、小舟で青年が本を朗読し、若い娘がそれに耳を傾けている。本作の主人公として情緒を作り上げているのは、夏の終わりの柔らかな光である。生い茂った葉を通る抜けて、光は娘の優しい顔を照らし、明るい色のブラウスを様々な色に染め上げている。二人きりで小舟で舟遊びをするこの光景に、画家は一体化する心という詩的なイメージを与え、理想郷のような別荘生活に流れる平和で穏やかな空気を表現している。
◆グッズ・土産
・図録『国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア』
・額絵
・絵ハガキ
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