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茨城県近代美術館「ザ・ベスト モネ、ルノワール、大観から靉嘔まで」

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 今日、水戸の茨城県近代美術館に「開館30周年記念 茨城県近代美術館名品展 ザ・ベスト モネ、ルノワール、大観から靉嘔(あいおう)まで」(2月9日~3月24日)を見に行って来ました。
 本県出身の横山大観や木村武山、中村彝(なかむらつね)、あるいは本県に住んだ小川芋銭の優れた作品を見ることができました。僕としては、シスレーやクロード・モネ等の西洋絵画を多く見たかったのですが、たまには違った分野の作品を見るのも大事と気持ちを切り替えました。

◆展覧会概要
 茨城県近代美術館は2018年10月、開館30周年を迎えました。本展では、美術館の前身時代より71年間を通じて収集してきたコレクション約4,000点の中から、選りすぐりの名品約100点を一堂に展示いたします。
 水戸出身の横山大観が北茨城の五浦で完成させた代表作「流燈」をはじめ、牛久に暮らし水魅山妖を愛し描いた小川芋銭の日本画、近代日本を代表する洋画家の中村彝や佐伯祐三らの油彩画、洋画家たちに影響を与えたモネやルノワールなど西洋の印象派絵画、他にも版画、水彩画、彫刻など、当館のオールスター級の作品が勢揃いします。
 会場では、猝症淵張◆辞瓩般誕任繊当館の人気キャラクター「きんびー」が作品の見どころを分かりやすく解説しながらご案内。また、「名品って何?」という素朴な疑問にもとづき、その作品が評価され愛される背景を探る、これまでにない試みも行います。 (茨城県近代美術館HPより)

《展示内容》
第1章 フランス風景
第2章 ヌード
第3章 光と影の幻想
第4章 人間像
第5章 美女
第6章 静かに日は過ぎる 花々と
第7章 さびしさと明るさと
第8章 茨城の風景


 以下、印象に残った絵をいくつか紹介します(出品作品リスト順)。なお、撮影可能な作品はiPhone8で撮りました。また、茨城県近代美術館HPから写真を引用しましたが、HPにないものは『茨城県近代美術館所蔵作品選』や展覧会リーフレットの写真をコピーしました。

アルフレッド・シスレー「葦の川辺―夕日」(1890、54×73cm)
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photo by iPhone8

アルフレッド・シスレー(1839-1899)
 イギリスの画家。印象派。生涯の大半をフランス過ごしたが、国籍はイギリスである。
 彼は首尾一貫して戸外制作で、おもに風景画を描く印象派として知られている。
 1857年から60年のロンドン滞在中に絵画に関心を持ち、パリのシャルル・グレールの画塾でモネ、ルノワール、バジールらと出会い、のちに印象派展に参加した。

 ルノワールやドガのように人物画を描くことは少なく、また画風を変化させることもなく、印象派の正当な様式を生涯維持し続けた画家である。美術史家のロバート・ローゼンブラムは、シスレーを「最も汎用的な特徴を持ち、非個性的で教科書として示すのに完璧な印象派絵画」と評している。
 セーヌ川を主題にした絵画シリーズが彼の代表作だが、実際に生涯の大半をセーヌ川下流域とロワン川の周辺の地で過ごし、多くの風景画を制作した。(『Artpedia 近現代美術の百科事典』より)
※以前、とても疲れていたとき、この絵を見て癒されました。以来、この美術館に行くと、常設展会場でこの絵を探します。今日は写真撮影できてラッキーでした。
https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/38545848.html


クロード・モネ「ポール=ドモワの洞窟」(1886、65×83cm)
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photo by iPhone8

クロード・モネ(1840~1926)
 モネは幼年期から青年時代まで港町ル・アーヴルで過ごしている。若き日にブーダンと出会って、自然の美を直視し、戸外で制作することの素晴らしさを学んだ。1859年にパリに出て、アカデミー・シュイスに通いピサロと知り合う。その後、シャルル・グレールのアトリエに通い、ルノワールやシスレーと出会った。パリでクールベやマネの作品から刺激を受けるが、20代のモネは困窮し、パリ近郊のセーヌ河沿いの町に移り住む。やがて水面の揺らめきや、自然が移りゆく瞬間をとらえるため、色彩を断片に分割した筆致を用い始め、印象派展に参加する。40歳代からジヴェルニーに定住し、「積みわら」「ルーアン大聖堂」などの連作を手がける。86歳で亡くなるまで邸内の庭の池に浮かむ睡蓮を描くことに没頭した。(図録『ポーラ美術館コレクション モネ、ルノワールからピカソまで』より)
※海の青が美しいと思います。僕的にはクロード・モネのベストのひとつです。


藤田嗣治「横たわる裸婦」(1927、81×100cm)
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『茨城県近代美術館所蔵作品選』より

藤田嗣治(1886-1968)
 1886年(明治19)、現在の東京都新宿区新小川町の陸軍軍医の家に生まれたフジタは、父の上司だった森?貎外の勧めもあり東京美術学校西洋画科に入学。当時主流であった明るい外光派風の洋画にあきたらず、1913年、26歳の時にフランスにわたります。

 パリのモンパルナスに住んだフジタは、ピカソやヴァン・ドンゲン、モディリアーニらエコール・ド・パリの画家たちと交流しました。彼らに刺激され、独自のスタイルを追究するなかで、日本や東洋の絵画の支持体である紙や絹の優美な質感を、油絵で再現しようと思いつきます。手製のなめらかなカンヴァスの上に、面相筆と墨で細い輪郭線を引き、繊細な陰影を施した裸婦像は、「素晴らしい白い下地(grand fond blanc)」「乳白色の肌」と呼ばれて絶賛されました。1919年にはサロン・ドートンヌに出品した6点の油絵がすべて入選し、ただちに会員に推挙されるなど、フジタの作品はパリで大人気となりました。

 1929年、凱旋帰国展のため16年ぶりに一時帰国。1933年以降は日本を活動の拠点とします。日中戦争がはじまると、祖国への貢献を願い大画面の戦争画の制作に没頭しますが、戦後は画壇から戦争協力者として批判を浴び、その責任をとる形で日本を離れます。

 再びパリに暮らし始め、日本には戻らないと決めたフジタは、1955年にフランス国籍を取得。1959年、72歳の時にランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受け、レオナールという洗礼名を与えられます。最晩年には、ランスに感謝を示したいと礼拝堂「シャぺル・ノートル=ダム・ド・ラ・ペ(通称シャペル・フジタ)」の建設を志し、完成から2年後に没しました。(ポーラ美術館HPより)
※昨年は藤田嗣治の作品を数多く見ました。笠間日動美術館と京都国立近代美術館の展覧会、そして国立西洋美術館の常設展。この「乳白色の肌」の裸婦像は藤田嗣治を象徴する作品だと思います。


中村彝「裸体」(1916、99.8×80.5cm)
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『茨城県近代美術館所蔵作品選』より


オーギュスト・ルノワール「マドモワゼル・フランソワ」(1917、52×42cm)
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茨城県近代美術館HPより

ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841~1919)
 ルノワールはフランス中部の町リモージュで、仕立屋の父とお針子の母の息子として生まれた。一家はパリへ移住し、ルノワールは13歳で陶器の絵付工として働き始める。画家を志してルーヴル美術館でルーベンスやフラゴナールの絵画を模写し、シャルル・グレールのアトリエに通い、生涯の友情を結ぶことになるモネ、シスレーらと出会う。1870年代には都会の風俗を明るい色彩で描き、印象派展に参加した。数年後には肖像画がサロンに入選し、パリの裕福な注文主から肖像画や邸内の装飾の依頼が集まり、人気作家となる。1880年代半ば以降、明確な輪郭線と立体描写による古典主義的な表現に向かう。晩年まで明るい色彩とやわらかに溶け合うような筆致で、女性の肖像画、裸婦像などを精力的に手がけた。(図録『ポーラ美術館コレクション モネ、ルノワールからピカソまで』より)


横山大観「流燈」(1909、143,1×51.5cm)
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『茨城県近代美術館所蔵作品選』より

「流燈」(茨城県指定文化財)
 本作は、明治時代においていわゆる近代絵画としての「日本画」を確立させ、日本の近代美術の展開を牽引した横山大観(1868~1958)の出世作として知られています。制作の経緯についても、明治36年(1903)1月~7月に菱田春草とともに派遣されたインド旅行の体験を踏まえ、日本美術院の五浦研究所において完成し、明治42年(1909)に第三回文部省展覧会に出品されたものであることが明らかとなっています。

 本図は文展出品後文部省の買い上げになりましたが、じつは大観は本図を含めて、「流燈」と題する作品を三点描いています。インドからの帰国直後に描かれた最初の作例は、惜しくも関東大震災で焼失したといわれますが、ガンジス河岸に佇む三人物を左寄せで小さく遠望的に描いています。一方、個人蔵本は本作と同じく近接した視点で大きく三女性を描き、画面内に構成しています。資料から本作の制作後の注文作であることが明らかになっていますが、造形上の比較からもそれは証明されます。すなわち求心的な構図を取り、より静謐(せいひつ)で重厚な雰囲気を湛える本作に対して、個人蔵本は人物の衣裳の色彩や文様が華やかとなり、姿態も自由に変化がつけられ、鑑賞的な魅力に富んだ展開作であることが窺えるからです。同じ主題のものが三点描かれたこと自体、大観にとってのインド体験とそこから得たものの重大さが偲ばれます。

 これまでの近代美術史の語り方では、本図は日本の絵画を呪縛してきた線からの解放を目指し、宗達・光琳らの色面的な絵画手法を取り入れたいわゆる朦朧体の実験から一歩踏み出し、人物画に取り組んだ意欲作として評価されてきました。確かにその通りなのですが、それ以上に女性像の表現として見た場合、江戸時代に流行した浮世絵美人画風の画法によらず、新たな聖女像を描こうとしていることが特筆されます。それは、眉・眼・唇など女性の美貌を形成する細部に墨線を用いず、朦朧体的な滲んだ暈(かさ)を用いていること、とりわけ官能美の象徴とされてきた髪際のほつれ毛の描写を否定し、同じく暈で表わしていることです。そして、新たに採用しているのは、手・腕・足指などに用いられた朱線および朱暈であり、これはむしろ平安時代中期の仏画に顕著に見出される方法なのです。加えて中央に座す人物、左右に立つ人物を配する構成や、それぞれ両手を腹前で組み、合掌し、灯明の皿を左手に載せ、右手をかざすという仕草がすべて阿弥陀三尊像などの仏画の三尊形式に倣ったものであることがわかります。インドという聖なる土地から得た精神的な体験を視覚的にイメージ化するにあたり、大観が目指したのはこのような伝統的な仏画を踏まえた新様式の女性像の創出だったのでしょう。エロスの聖化に理想の美を見出そうとしたところにも、本図の近代美術史上の意義があります。

 署名は「大観」(墨書)、印章は「大観」(朱文円印)。附属の箱蓋には旧箱の蓋が埋められ、その表には「流燈」、裏には「大観題匣」の箱書があります。落款と箱書の書体は明らかに異なっていますが、この箱書は関東大震災で焼失したとされてきた本図が、第二次世界大戦後、奇しくも再び世に現れ、昭和23年(1948)8月8日付の毎日新聞で紹介されたように、大観自身が本図に再会した際に書き加えたものです。そうした摩訶不思議な挿話の存在もまた、「流燈」という宗教的な主題と相俟って、本図の神秘性を否応無しに掻き立てるものとなっています。昭和53年(1978)に本県が購入し、現在、茨城県立近代美術館に保管されています。(茨城県教育委員会HPより、一部改編)
※昨年、テレビ東京「美の巨人たち」を見て、この絵を知りました。横山大観らしからぬ、かわいらしい印象で、数ある大観の作品の中でも異質だと思います。インド旅行の体験を踏まえて描かれたそうですが、衣装はインド風でも、顔は日本人ですね。美しい作品だと思います。


中西利雄「彫刻と女」(1939、91×117cm、水彩)
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『茨城県近代美術館所蔵作品選』より

中西利雄(1900-48)
 東京都に生まれる。日本中学校、東京美術学校洋画科卒業。1920年代、日本水彩展、光風会展、帝展などに参加し、1928年にフランスへ渡る。翌年、大学同期の小磯良平とともにヨーロッパをめぐり、サロン・ドートンヌに多数作品を出品し、入選した。
 1931年に日本へ帰国。帰国後、1935年に第二部会展で「婦人帽子店」特選。翌年、新制作協会を小磯良平、猪熊弦一郎らとともに結成。1948年、大仏次郎の「帰郷」の挿絵を毎日新聞に連載していたが、病のため中絶。10月6日、肝臓がんのために自宅で逝去。(Wikipediaより、一部改編)
※黄色い和服が鮮やかで、とてもモダンな印象です。昭和14年(1939)に描かれたなんて驚きです。


中村彝「カルピスの包み紙のある静物」(1923、60.7×50.2cm)
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茨城県近代美術館HPより

「カルピスの包み紙のある静物」(茨城県指定文化財)
 本県出身の洋画家である中村彝は、はじめレンブラント、ルノアールやセザンヌなどの影響を受け画風を発展させ、大正9年(1920)、「エロシェンコ氏の像」(東京国立近代美術館蔵、昭和52年(1977)重要文化財指定)を制作しています。
 大正12年(1923)の関東大震災後、結核症状の悪化により死を覚悟し、生命ある時間のなかで新たな画風の確立を意図して、「髑髏(されこうべ)を持てる自画像」(大原美術館蔵)・「カルピスの包み紙のある静物」・「老母の像」(徳川ミュージアム蔵)を制作しました。本作品は、近代日本の洋画史上まれにみる、図像解釈学の興味深い対象です。(茨城県教育委員会HPより、一部改編)
※中村彝(1887-1924)は37歳で病死しましたが、この作品は死の前年に描かれたものです。上記の解説文に、レンブラントやルノアール、セザンヌなどの影響を受けて画風を発展させたとありますが、彼にもっと時間があったらと思います。
 ところで、カルピスの包み紙ですが、青地に白の水玉模様で、現在とは逆ですね。(1922年から青地に白の水玉模様が使われており、白地に青の水玉模様に変更されたのは1953年でした。)


小川芋銭「海島秋来」(1932、112×95.6cm)
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『茨城県近代美術館所蔵作品選』より

「海島秋来」(茨城県指定文化財)
 小川芋銭は慶応4年(1868)に江戸赤坂溜池(現東京都港区)に生まれました。その後牛久沼のほとりに移住し、独自の作品を発表しました。
 この作品は、芋銭晩年の昭和7年(1932)に描かれたものであり、同年の日本美術院第19回展覧会に出品されました。画面の下方には漁民が集い談笑する海辺の日常の光景が、また上方には打ち寄せる波とその波間から頭を覗かせる岩礁が描かれ、同じ画面の中に異次元の空間が2つ存在しているかのような印象を受けます。
 茨城県近代美術館が所有する本絵画は、地域性と普遍性を備えた近代南画の傑作であり、小川芋銭の代表作の1つとして貴重なものです。(茨城県教育委員会HPより、一部改編)
※小川芋銭と言うと「河童」の画家という印象でしたが、そうじゃないということを知らされました。


木村武山「阿房劫火」(1907、141×240.8cm)
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『茨城県近代美術館所蔵作品選』より

「阿房劫火(あぼうごうか)」(茨城県指定文化財)
 木村武山は明治9年(1876)に笠間に生まれ、明治29年(1896)東京美術学校(現東京芸術大学)卒業。写実的な描写力と古典に学んだ素養を基礎とした花鳥画や歴史画を得意としました。
 この作品は、明治30年(1897)に描かれた当時31歳の武山の意欲作で、同年開催の第1回文部省美術展覧会(文展)で3等賞を受賞しました。本絵画は、中国の「史記」に取材した歴史画で、鮮やかな色彩表現によってダイナミックなドラマを描き出しています。
 茨城県近代美術館が所有する本絵画は、茨城県のみならず、近代日本美術史を代表する絵画であり、木村武山の代表作の1つとして貴重なものです。(茨城県教育委員会HPより、一部改編)
※上記解説文に「当時31歳の武山の意欲作」とありますが、その迫力に圧倒されます。


小川芋銭「狐隊行」(1930、45.3×62.5cm)
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『茨城県近代美術館所蔵作品選』より


小堀進「霞ヶ浦」(1954、67×99.5cm、水彩)
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展覧会リーフレットより

小堀進(1904-75)
 茨城県行方郡大生原村(現潮来市大賀)出身の水彩画家である。水彩連盟結成メンバーのひとり。
 公募展初出品作品から没年まで一貫して水彩画のみを描き、長年水彩画の地位向上と発展をもたらし、また郷里水郷の風景、山、そして空や海、広大な空間を独自の画法により描き出した。(Wikipediaより、一部改編)
※この方の水彩画好きです。もう一点「驟雨」もよかったです。常設展の方にも一点(「虹」?)ありました。この方の作品を見られたことも今日の収穫のひとつです。


 以下も印象に残った作品ですが、写真が無いので、画家名と作品名だけを紹介します。
◆辻永(つじひさし)「サンジェルマンの春」(1921、53×72.5cm)
◆村山密「シャンゼリゼ」(1989、150×150cm)
◆梅原龍三郎「裸婦図」(1922頃、117×91cm)
◆里見勝蔵「女」(1930頃、74×100cm)


◆グッズ・土産
・『茨城県近代美術館所蔵作品選』(ポケットブック判)
・絵ハガキ

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