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my 見仏記65~京都1日目

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 5/23(木)、見仏3日目。
 トヨタレンタリース奈良〈JR奈良駅前店〉でヴィッツをレンタルし、午前8時過ぎ、浄瑠璃寺をめざして出発しました。この日の見仏コースは、浄瑠璃寺(木津川市)→蟹満寺(〃)→観音寺(京田辺市)→東寺(京都市)→三十三間堂(〃)でした。
 なお、ヴィッツはトヨタレンタリース京都〈京都駅新幹線口店〉に返却しました。(走行距離62km)

浄瑠璃寺(再)
 一昨年、三井記念美術館の「奈良西大寺展」で浄瑠璃寺の吉祥天女像(吉祥天立像)を拝観しました。その直後、浄瑠璃寺を訪れ、九体阿弥陀如来像を拝観しました。その後、テレビで浄瑠璃寺が紹介されるのを見て、ぜひ再訪したいと思っていました。

 奈良市を早く出過ぎたため、浄瑠璃寺には開門前に着いてしまいました。しかし、そのおかげで係以外は誰もいない本堂へ入ることができ、あの静寂を味わうことができました。
 堂内に入ると、すぐに異変に気づきました。阿弥陀如来像が7体しかありません。係の方に尋ねると、「九体阿弥陀如来像は、平成30年度から5年計画で修理・修復しており、現在2体が修理・修復中。来年度は中尊を修理・修復する」とのことでした。一昨年、初めてこの寺を訪れた時、9体揃った九体阿弥陀如来像を拝観できたのは幸運だったし、今回中尊を拝観できたのもある意味幸運だったと思います。

 なお、吉祥天女像の春季開扉日は3/21-5/20で、ほんの数日違いで拝観できませんでした。これは不運というより、事前調査を怠ったせいです。

九体阿弥陀如来像
イメージ 1
木造、像高:中尊224.2cm、平安時代(浄瑠璃寺のパンフレットをコピー)

 奈良県との県境の木津川市にある浄瑠璃寺は、緑豊かな浄土教式庭園が残る静かな寺院で、開創は永承2年(1047)です。「浄瑠璃」とは、薬師浄土の東方浄瑠璃世界に由来し、池をまんなかに東方の高台の三重塔(国宝)には薬師如来坐像(重文)が安置されています。池の西方にある本堂(国宝)は、正面11間、側面4間の細長い阿弥陀堂で、そのなかに9体の阿弥陀如来坐像(国宝)が安置されています。「観無量寿経」の「九品(くほん)往生」に基づく藤原時代の定朝様で作られた九体阿弥陀が現存する唯一の寺院としてきわめて重要です。
 本尊は丈六像で、左右の脇仏8体は小ぶりでやや時代が下がると思われます。九体阿弥陀は、造形の相違から何人かの仏師の手になることが窺えますが、全面解体修理が行われたことがないために詳細な研究は手つかずです。中尊の造立が記録通りに永承年間だとすると、宇治の平等院像よりも数年遡ることになり、定朝が制作した可能性も考えられます。(籔内佐斗司『仏像礼讃』より、一部改編)
※浄瑠璃寺には九体阿弥陀如来像や吉祥天女像(秘仏)の他にも見るべき仏像が多くあります。以下に列記します。なお、本堂内は自然光のみで、不動明王三尊像など、よく目を凝らさないと見ずらかったように思います。
・子安地蔵菩薩像(藤原時代)
・不動明王三尊像(不動明王+矜羯羅童子・制多迦童子)(鎌倉時代)
・四天王像(藤原時代)
・薬師如来像(秘仏/開扉:毎月8日、彼岸の中日、1月1・2・3・8・9・10日、好天に限る)
・大日如来像(秘仏/開扉:1月8 ・9・10日)

※グッズ・土産
・『新版 古寺巡礼 京都2 浄瑠璃寺』



蟹満寺(かにまんじ)
 釈迦如来坐像について、蟹満寺の説明資料は「螺髪(らほつ)と白毫(びゃくごう)をつけず人間味をおびた相好で親しみを覚える。また、手の指間には水掻の如き曼網相(まんもうそう)を具え生きとし生けるものをすべて悟りの世界へ救い上げるという形相が尊い」と述べています。白鳳時代の、薬師寺の薬師三尊像にも匹敵するような、こんな優れた仏像がここにあることが驚きでした。蟹満寺のある山城国南部は大和国と接しており、奈良仏教の影響下にあったようです。それで、このような仏像がこの地に残ったのでしょう。

イメージ 2
本堂。ここに釈迦如来坐像は安置されています。

釈迦如来坐像
イメージ 3
金銅像、像高240cm、白鳳時代(絵ハガキをコピー)

 京都府木津川市にある蟹満寺は、飛鳥時代の創建と推定されますが、詳細なことはわかっていません。奇妙な寺名も、所在地の「綺田(かばた)」から転訛したものと考えられます。平安時代、この寺の本尊は観音菩薩で、「今昔物語集」に記された蟹の恩返しの物語から現在の寺名になったようです。
 本像は丈六(240cm)の巨像で、薬師寺の薬師三尊像(680)や山田寺の仏頭(685)とお顔などの造形が極似していて、同じ時期の同じ工房の制作を感じさせます。完成度の高い堂々としたお顔や体躯は、白鳳時代の彫刻制作技術の高さを示し、天平時代の大仏造立に繋がる技術の蓄積が着々と進められていたことが想像できます。
 2008年の総合調査で、本像が江戸時代の地層の上に乗っていることが判明し、本像伝来の謎が深まりました。飛鳥と天平時代に挟まれたほんのわずかな時期に花開いた白鳳時代という金属文化を支えた仏師集団とは、いったいどんな人たちだったのでしょう。(籔内佐斗司『仏像礼讃』より)


※グッズ・土産
・絵ハガキ、御守り


観音寺(再)
 2016年以来、2度目の拝観でした。聖林寺の十一面観音菩薩立像と同じ、奈良時代の木心乾漆像です。ご住職の許しを得て、十一面観音のすぐそばまで行くと、その高貴な美しさに包み込まれるように感じました。

 お寺の歴史や十一面観音について、ご住職の丁寧な説明をうかがいました。十一面観音の横に「般若絵心経」という奉納額があり、これも説明していただきました。昔、字の読めない人々に般若心経の音を伝えるためのものだったそうです。冒頭の釜をひっくり返して、「まか(摩訶)」から笑えました。

十一面観音菩薩立像
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木心乾漆造、像高172.7cm、奈良時代(京田辺市観光協会HPより)

 本像の像高は172.7cm。8世紀後半の制作であり、一木造の心木の上に木屎漆(こくそうるし)を盛り上げて造形する木心乾漆造(もくしんかんしつづくり)という技法を用いている。この技法は、骨組みをのぞくと基本的に漆を塗布した麻布だけを用いる脱活(だっかつ)乾漆像に比べれば、まだ安価で簡便だが、それでも木造に比べればはるかに高価かつ高度な技術を必要とするため、平安初期を最後に、制作されなくなってしまう。逆に言えば、この技法を用いた仏像は、非常に恵まれた環境下で制作されたことを示唆している。
 8世紀にこの技法を用いて制作された十一面観音立像の作例は、他に奈良の聖林寺の十一面観音立像しかない。この2つの像は、技法的に共通するのみならず、頭上の変化面が小さめに造形されている点、ともすると異様な感じをあたえがちな本面両側の脇面を省略している点も共通する。これら造形上の特徴は、日本人の平明さを好む志向を表しているという指摘もあり、その後の十一面観音像の典型を創作したという意味で、きわめて重要である。これはあくまで私見にすぎないが、観音寺像のほうが聖林寺像よりも、表情が温和で、より日本化しているように思える。いわば和風の美形である。(『完全保存版 日本の美仏』より)


※参考(般若絵心経)
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東寺(4回目)
 東京国立博物館の東寺展(3/26-6/2)では、講堂の仏像21体のうち15体と、宝物館の兜跋毘沙門天立像を拝観しました。今回、講堂に残った(?)6体に会いたくて東寺を訪れました。

 講堂に安置されているのは、大日如来・金剛波羅蜜多菩薩・不動明王・梵天・多聞天・広目天の6体です。広い講堂が閑散としているのではと危惧しましたが、全くの杞憂でした。
 堂内には6体の仏像だけでしたが、それぞれの存在感が増したようで、こちらにグッと迫ってくるように感じました。

 久々に金堂の薬師三尊をじっくり拝観しました。すると、以前にはなかった薬師三尊への思いが心に湧いてきました。

【講堂】
大日如来坐像
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寄木造・漆箔・玉眼、像高285.2cm、明応6年(1497)(絵ハガキをコピー)

 智拳印を結ぶ金剛界大日如来像。講堂諸尊の本尊となる丈六の巨像で、基壇の中央に安置される。寄木造り、漆箔仕上げの像で、目には玉眼を嵌入(かんにゅう)している。頭部内に銘文があり、大仏師であった康珍の名や明応2年(1493)の年紀が確認される。作者の康珍は、当時の京都を代表する七条仏所の仏師。室町時代を代表する彫像の一つとして評価される。(根立研介・新見康子『もっと知りたい 東寺の仏たち』より)


不動明王坐像
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一木造・彩色、全高173cm、承和6年(839)(絵ハガキをコピー)

 五大明王の中尊像。左手に羂索(けんさく)、右手に三鈷剣を執る。身色は青色で、顔をわずかに向かって左に向けている。髪は総髪とし、左耳弁髪を垂らしている。両目を見開き、上の歯牙で下唇を噛む面貌は経典には説かれておらず、弘法大師様と呼ばれている。(根立研介・新見康子『もっと知りたい 東寺の仏たち』より)


【金堂】
薬師三尊像

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中央に薬師如来坐像、向かって右側に日光菩薩立像、左側に月光菩薩立像(絵ハガキを3枚並べてコピー)

薬師如来坐像
 寄木造・漆箔・玉眼、像高288cm(丈六)、慶長8年(1603)頃
 七仏薬師を配した巨大な光背を追い、腰回りに十二神将像を配する裳懸宣字座(もかけせんじざ)に坐すなど、創建当初像を参考にして造られている。肉取りは平板になり、面長な顔立ちは少し卑俗なところがあるが、造形は総じて重厚で、体部には彫り口の強い衣文(えもん)を賑やかに刻んでいる。巨体が大過なくまとめ上げられており、桃山時代彫刻の中でも出色の出来映えを示す。ヒノキ材を用いた寄木造りの技法で造られ、漆箔仕上げとする。
日光菩薩立像・月光菩薩立像
 木造・漆箔・玉眼、像高:日光290cm/月光289cm(半丈六)、慶長8年(1603)頃
 薬師如来像の左右に配される脇侍像で、いずれも半丈六の巨像。向かって右の日光菩薩像は、肘を曲げて左胸前に左手を置き、右手は垂下して持物(じもつ)の蓮華を執っている。左方の月光菩薩像は、両手の構えや腰の捻りなどが、日光菩薩像と左右対称となる。両像とも構造の詳細は不明であるが、頭体部の幹部はそれぞれ前後に合わせた二材から作られているようである。表面は漆箔仕上げとする。(根立研介・新見康子『もっと知りたい 東寺の仏たち』より)




三十三間堂(再々)
 昨年11月以来の拝観でした。修学旅行生徒や外国人観光客で混雑していましたが、それでもここには見るべき素晴らしい諸仏が安置されています。

 お堂中央に丈六の千手観音坐像。そして、1,000体の千手観音立像と風神・雷神像、二十八部衆像がそれを取り囲むように配置されています。1+1,000+2+28=1,031という仏像の数に圧倒されますが、一体一体が美しく、ただ数の多さだけを誇っているわけではありません。
 なお、1,000体の千手観音立像のうち、5体を東京国立博物館等に貸し出していましたが、現在は全て戻っているそうです。

千手観音坐像
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寄木造・漆箔・玉眼、像高334.8cm、鎌倉時代(湛慶作)(『三十三間堂の佛たち』より)

 正しい名称は「十一面千手千眼観世音菩薩」といい、この坐像と一千体の立像とが本尊である。仏教伝来とともに日本人の生活感情に密着して育った観音信仰も、世が末法に入ると意識された平安時代から、いっそう切実の度を加え、限りない慈悲の力を求めて、十一面や如意輪、馬頭といった変化(へんげ)観音への信仰が盛んになった。
 殊に仏徳の慈悲性を分化・具象した多様な観音諸尊の中、全方向を洞察する多面と千手千眼を備えた千手観音は、あらゆる慈徳を兼ね、無限の救済力を発揮する絶対者として「蓮華王」と尊称されて、この頃より確固たる信仰を根付かせることとなった。(『三十三間堂の佛たち』より)


二十八部衆のうち、迦楼羅(かるら)王像
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木造、像高163.9cm、鎌倉時代(『三十三間堂の佛たち』より)

二十八部衆
 千手観音に従う眷属(けんぞく)が、二十八部衆。梵天、帝釈天、四天王、金剛力士、八部衆など28の天部衆で構成されています。力を結集して千手観音の本誓(ほんぜい)を守護し、観音を信仰する人々を護る役目を担った護法神たちです。28の尊名や持物には諸説があり、一定していません。
 日本で造像されるようになったのは平安時代頃と考えられますが、現存するものは鎌倉時代以降のものです。(石井亜矢子『仏像の見方ハンドブック』より)
迦楼羅王像
 サンスクリット語の「ガルダ」の音写で、ガルダは蛇(コブラ)を常食とするという伝説の巨鳥で、金翅鳥ともいわれる。インドではヒンドゥー教・ビシュヌ神の乗り物で、仏教に導入されて護法神である天竜八部衆の第一に数えられ、梵天や大自在天・文殊菩薩の化身ともいわれる。須弥山をとり囲む鉄囲山(てっちせん)の内海に浮かぶ四大洲(この中、南方の閻浮提(えんぶだい)がこの娑婆という)の大樹に住み、止雨避雷・除災延命の徳をもつとされる。
 本像は翼をもつ鳥頭人身(ちょうずにんしん)で横笛を吹く姿であり、日本のカラス天狗にも影響を与えたという。(『三十三間堂の佛たち』より)
※眷属:仏・菩薩につき従うもの。薬師如来の十二神将、千手観音の二十八部衆など。


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